西夏書事卷三十三 宋徽宗(遼大慶八年) 重和元年(乾順雍寕五年) 1118年

震武軍の攻防と丁星原侵掠

  • 春二月、震武軍を包囲した。震武は童貫が築いた古骨龍城で、熙・秦両路からの補給が難しい辺地にあり、築城以来夏国はしばしば兵を争わせ知軍事の李明を殺していた。熙河・涇原・環慶で同日に地震が起き民心が動揺する中、乾順は善治堡から兵を入れて包囲したが、知軍の孟明が負傷しながらも戦い、熙河将の劉法の来援で囲みは解けた。
  • 夏四月、丁星原に侵入し大いに掠奪した。劉法が震武の囲みを解いた後、瞎令古城の北に徳通・石門の両城堡を築いたことに乾順が脅威を感じ、兵を送って丁星原を包囲させたが、防備が固いのを見て六日間周辺を掠めて引き上げた。徽宗は靖夏・伏羌・制戎などの城の再築を詔した。
  • 六月、割牛城を築いたが、廓州防禦使の何灌に夜襲され守り切れなかった。乾順は宋の築城が止まないことを見て癿六嶺の分界に割牛城を築き重兵を置いたが、童貫の命で何灌が膚公城から夜襲して奪取し、統安と改称された。