出自と初期の武功
- 渾瑊、もと鉄勒九姓の渾部の出身。騎射を善くした。安禄山の乱で李光弼に従い河北を平定し、賊の驍将李立節を射てその左肩を貫き討ち取った。郭子儀に従い両京を回復し安慶緒を討ち新郷で勝利し武鋒軍使に抜擢された。僕固懐恩に従い史朝義を平定し大小数十戦で功が最も多く太常卿に改められた。
吐蕃・回紇との戦い
- 吐蕃が塞を犯すと涇原節度使馬璘とともに討った。黄菩原に進んだ瑊は険に拠り槍の防塁を設けて敵の突入を防いだが、旧将史抗らがこれを軽んじ槍を退けて騎で駆けたため大敗した。子儀が諸将を集め策を問うと瑊は「再戦を願う」と答え、朝那に馳せて李国臣とともに秦原に趣いた。吐蕃が引くと邀撃して奪われたものをすべて取り返した。
- 回紇が太原を侵し鮑防の軍を破ると、瑊は都知兵馬使に任じられ石嶺関から南に諸軍の掎角を督し、虜は引き返した。
奉天防衛
- 建中年間、李希烈が瑊の名を騙って偽書を作ったが帝はその計を見抜き瑊を疑わず良馬・錦幣を賜った。帝が奉天に避難すると瑊は家人子弟を率いて従った。朱泚の兵が城に迫り譙門で朝から日中まで戦い続けた。芻車が来ると瑊は車を引いて門を塞ぎ焼いて戦い賊を退けた。
- 泚は攻具を治め矢石が雨のように降り、十日にわたり塹を掘って城を囲んだ。城中は死者が多く人心は危うくなり、帝と瑊は互いに泣いた。泚は雲梁という巨大な攻城車を造り城の東北を指した。帝は瑊に詔書と印を授け功に応じて授けるよう命じ、「朕は公と訣別する」と告げ瑊は俯伏して嗚咽した。
- 瑊は仲荘とともに雲梁の通る道を測り大隧を掘って馬糞と薪を積み燃やす備えをした。賊が風に乗じて梁を推し進めると、士は凍え飢えていたが瑊は忠義で率い、自らも矢を受けながら血を被って戦った。雲梁が隧に落ちると風が返り悉く焼け賊は皆死に城中は歓声を上げた。泚の攻撃は激しさを増したが李懐光の来援で賊は去った。
- 帝が山南に避難する際、瑊は諸軍で衛り懐光の追騎を後軍が撃退した。京師に向け諸軍を率い、賊将韓旻を武功で破り、武亭川で一万の首級を斬り奉天に屯して西面に当たった。李晟が東渭橋で賊を破ると、瑊は韓游瑰・戴休顔とともに咸陽を収め延秋門に進んだ。泚が平定されると論功により侍中を兼ねた。
河中節度使と対吐蕃外交
- 天子が還宮すると河中絳慈隰節度使・河中同陝虢行営副元帥、咸陽郡王に封じられ大寧里の甲第を賜り、宰相らが見送るほどの栄誉であった。李晟と並ぶ礼遇を受け河中に屯した。
- 吐蕃の尚結賛が鹽・夏を陥れ京師を窺っていたが、瑊と李晟・馬燧を畏れ、詭辞と重礼で燧に講和を求めた。燧が結賛に苦しめられ、帝は平涼川での会盟を詔し瑊を会盟使とした。しかし結賛に劫かされ副使崔漢衡以下は皆捕らえられ、瑊だけが免れた。奉天から入朝し罪を待つ服装で臨んだが詔で赦された。吐蕃が再び侵すと瑊は奉天を鎮め、虜が引くと河中に戻り卒した。
人物と評価
- 瑊は読書を好み忠謹な性格で、功が高くとも志はますます謙り、歳時の貢奉は必ず自ら閲した。恩賜があれば拝跪して受け常に帝の前にいるかのごとくで、世は金日磾に比した。それゆえ帝は終始信頼した。貞元以後、天子は藩鎮が事を起こすことを恐れ桀驁な者には姑息であったが、瑊は上奏が通らずとも「上は私を疑っていない」と密かに喜んだ。それゆえ蒲州を治めること十六年、常に軍を統率し猜疑が入り込まなかった。君子はこれを賢とした。
史論
- 孫子は「守れば則ち足らず」というが、瑊が槍の防塁を設けて自ら営したのがこれに当たる。また「敵人をして至るを得ざらしむる者は、これを害すればなり」というが、瑊が秦原に趣いて吐蕃を去らせ、諸軍が掎角して回紇を遁走させたのがこれである。また「守りて必ず固し」というが、瑊が奉天を守り朱泚を拒んだのがこれに当たる。