十七史百將傳卷九 唐·薛仁貴

薛仁貴(絳州龍門の人)。貧賤の身から太宗の高句麗親征に応募し、白衣で奮戦して知られた。突厥・鉄勒討伐で武名を上げたが、大非川の戦いで吐蕃に大敗し庶人に落とされた。晩年に再起用され突厥を破った。

年表(2件)

出自と応募

  • 薛仁貴、絳州龍門の人。若くして貧賤で田を業としていた。その妻は「あなたには天下に秀でた才があるが、時に遇わねば発揮できません。今、天子は自ら遼東を征し猛将を求めています。これは得難い好機、功名を図って自らを顕すべきです」と述べ、これに応じて応募した。

安市城の戦いと出仕

  • 王師が安市城を攻めた際、高麗の莫離支は将の高延寿らに二十万の兵を率いて拒戦させ、太宗は諸将に分けて撃たせた。仁貴は驍悍を頼みに奇功を立てようとし、白衣を着て自らを目立たせ、戟を持ち腰に二張の弓を帯びて叫びながら馳せ、向かうところ敵をなぎ倒した。軍がこれに乗じると賊は潰走した。帝はこれを望見し、使者を遣わして「先鋒の白衣の者は誰か」と問わせると「薛仁貴です」と答えた。帝は召し見て感嘆し金帛・人馬を多く賜り、遊撃将軍を授けた。師が還ると帝は「朕の旧将はみな老いた。驍勇の者を抜擢し外事を託そうにも卿ほどの者はいない。朕は遼東を得たことより虓将(猛々しい将)を得たことを喜ぶ」と述べた。右領軍中郎将に遷った。

賀魯討伐への進言と鉄勒道の戦功

  • 蘇定方が賀魯を討った際、仁貴は上疏して「兵を出すのに名分がなければ事は成りません。賊の非を明らかにすれば敵は服します。今、泥熟は賀魯に従っておらず、かえってこれに破られ妻子を虜にされました。王師が賀魯の部落から転じてその家族を得たならば、これをことごとく返し厚く賜物を与えるべきです。そうすれば百姓は賀魯の暴と陛下の至徳とを知るでしょう」と述べた。帝はこれを納れ、その家族を返すと、泥熟は軍に従い死力を尽くすことを願い出た。
  • 詔により鄭仁泰の副として鉄勒道行軍総管となった。出発に際し内殿で宴が催され、帝は「古に七札を貫く射手がいたというが、卿は五甲で試みよ」と述べた。仁貴が一発でこれを射通すと帝は大いに驚き、さらに堅い甲を賜った。当時、九姓の衆は十余万おり、驍騎数十人に挑戦させたところ、仁貴は三矢を放ちそのたびに三人を殺した。これに虜は気を奪われことごとく降った。仁貴は後患を恐れこれをことごとく坑にした。転じて磧北の残党を討ち、偽の葉護兄弟三人を捕らえて帰った。軍中では「将軍三箭にて天山を定め、壮士長歌して漢関に入る」と歌われた。九姓はこれより衰えた。鉄勒の思結・多覧葛らの部は天山に拠っていたが、鄭仁泰が至ると恐れて降った。仁泰はこれを受け入れず、その家族を虜として軍への賞に充てたため、賊は相率いて逃げ去った。

大非川の敗戦

  • 吐蕃が入寇すると、仁貴は邏娑道行軍大総管に任じられ、将軍の阿史那道真・郭待封を率いて吐谷渾を援けるべくこれを撃った。待封はかつて鄯城の鎮守であり仁貴らと同格であったが、この時その下に置かれたことを恥じ、しばしば命令に従わなかった。軍が大非川に次ぎ烏海に趨こうとしたとき、仁貴は「烏海は地が険しく瘴気があり、我らが死地に入るのは危険な道といえる。しかし速やかに進めば功があり、遅れれば敗れる。今、大非嶺は広く平らかであるから二柵を置き、輜重をことごとく収め万人を留めて守らせ、我らは道を倍して進み備えのない賊を滅ぼそう」と述べた。約束の輜重で河口に至り賊に遇うとこれを破り、牛羊を万単位で得た。烏海城まで進んで後援を待った。待封は当初これに従わず輜重を率いて後を追ったため、吐蕃は衆二十万でこれを奪い糧仗はことごとく失われ、待封は険を保って動けなくなった。仁貴は大非川に退軍し、吐蕃はさらに四十万の兵を加えて来戦し、王師は大敗した。仁貴は吐蕃の将論欽陵と和議を約してようやく退くことができたが、吐谷渾はついに滅んだ。仁貴は嘆いて「今年は庚午に在り、星は降婁に在る。西方で事を起こすべきではなかった。鄧艾が蜀で死んだ理由もここにある。我はもとより敗れると知っていた」と述べた。詔により死罪を免ぜられ庶人に落とされた。

晩年の起用

  • まもなく高麗の残党が叛くと起用されて鶏林道総管となった。また事に坐して象州に貶されたが赦に会って還った。帝はその功を思い、召し見て「今、遼西は穏やかでなく瓜・沙への路も絶えている。卿はどうして高枕して朕のために指麾せずにいられようか」と述べた。ここに瓜州長史・右領軍衛将軍・検校代州都督を拝し、兵を率いて突厥の元珍を雲州に撃った。突厥は「唐将は誰か」と問い、「薛仁貴だ」と答えられると、「薛将軍は象州に流されて死んだと聞いていたが、どうして生きているのか」と述べた。仁貴が兜鍪を脱いでこれを見せると突厥は互いに顔を見合わせ色を失い、下馬して羅拝し次第に逃げ去った。仁貴はこれに乗じて進撃し大いに破り、首級一万を斬り生口三万を獲り、牛馬もこれに準じた。
  • 永淳二年(683年)に没した。

史論

  • 孫子は「将とは国の輔である」というが、仁貴が功を立て太宗が虓将を得たことを喜んだのがこれに当たる。また「三軍も気を奪うべし」というが、仁貴が三矢を放ち虜の気を奪ったのがこれである。また「上下同欲の者は勝つ」というが、仁貴と将帥が不和で大非川の敗があったのがこれに当たる。また「天地いずれを得るか」というが、仁貴が庚午の年に西方で事を起こすべきでないと述べたのがこれである。また「将軍はその心を奪うべし」というが、仁貴が兜鍪を脱いで突厥が逃げ去ったのがこれに当たる。