出自と若年の気概
- 楊素、字は処道、弘農華陰の人。若い頃は落拓(拘束されず)で大志があり小節にこだわらなかった。学を好み文をよくし、風角(占い)にも留意した。美しい須髯を持ち英傑の風貌があった。
- 素はその父が節を守って斉に陥ちたため朝命を蒙っておらず、上表して申し立てたが帝は許さなかった。再三に及ぶと帝は大いに怒り左右に斬るよう命じたが、素は「臣は無道の天子に仕え死ぬのが分でございます」と大言し、帝はその言葉を壮とし次第に礼遇するようになった。帝が素に詔書を作らせると下筆立ちどころに成り言葉も義も兼ね備えていたため帝はこれを嘉し「よく自ら勉めよ、富貴にならないことを憂うな」と言うと、素は即座に「臣はただ富貴が臣に迫ってくるのを恐れるのみで、臣は富貴を求める心はございません」と答えた。斉平定の役では素はその父の麾下を率いて先駆けとなることを願い出、帝はこれを許し竹策(竹の鞭)を賜い「朕はまさにお前を大いに駆り使いたい、それでこの物を賜う」と言った。高祖が丞相になると素は深く自ら結び高祖はこれを甚だ器とした。
陳討伐
- 高祖が受禅した初め、すでに江表を図る志があった。先に素はしばしば陳を取る計を進言していたが、まもなく信州総管を拝して遣わされた。素は大艦を造り「五牙」と名づけた。上には五層の楼を起こし高さ百余尺、左右前後に六本の柏竿を置き高さもそれぞれ五十尺で、戦士八百人を容れ旗幟を上に加えた。次を「黄龍」といい兵百人を置き、その余の平乗・舴艋にもそれぞれ差があった。
- 大挙して陳を伐つ際、素は行軍元帥として舟師を率い三峡に趣いた。軍が流頭灘に至ると、陳の将戚欣は青竜百余艘、兵数千人を狼尾灘に屯させ軍路を遮った。その地は険峻で諸将は憂慮したが、素は「勝負の大計はこの一挙にある。昼に船を下せば彼は我を見てしまい、灘の流れも迅激で人の意のままにならず、我は好機を逸してしまう」と述べ、夜にこれを掩った。素は自ら黄竜数千艘を率いて枚を銜んで下り、開府王長襲に歩卒を率いて南岸から欣の別柵を撃たせ、大将軍劉仁恩には甲騎を率いて白沙の北岸に趣かせ、夜明けとともにこれを撃った。欣は敗走しその衆をことごとく虜としたが、これを労って解放し秋毫も犯さなかった。陳人は大いに悦んだ。
- 素は水軍を率いて東下し、舟艫は江を蔽い旗甲は日に輝いた。素は平乗の大船に座り容貌雄偉であったため、陳人はこれを望み見て「清河公は江神である」と懼れた。陳の南康内史呂仲粛は岐亭に屯し正しく江峡に拠り、北岸に岩を鑿ち鉄鎖三条を綴って上流を横断し戦船を遮った。素は劉仁恩とともに陸に上がり並んで進み、まずその柵を攻めると仲粛の軍は夜に潰れ、素はゆるやかにその鎖を取り除いた。仲粛は再び荊門の延州に拠ったが、素は巴蜒に千人を率いさせ五牙四艘に乗り拍檣で敵の十余艦を砕かせ大破し、甲士二千余人を捕虜とし、仲粛はかろうじて身一つで免れた。
突厥討伐
- 突厥の達頭可汗が塞を犯すと、素は霊州道行軍総管としてこれを塞外に討った。先に諸将は虜と戦うたびに胡騎の突入を懼れ、みな戎車と歩騎を相参じさせ鹿角で方陣を作りその中に騎を配していたが、素は人に「これは自ら固める道であって勝ちを取る方策ではない」と言い、旧法をことごとく除いて諸軍を騎陣とした。達頭はこれを聞いて大いに喜び「これは天が我に授けたものだ」と言い、馬を下り天を仰いで拝し、精騎十余万を率いて至った。素は奮撃してこれを大破し、達頭は重傷を負って逃げ、殺傷は数えきれず、諸虜は号泣して去った。
用兵の峻厳さ
- 素は権略に富み機に乗じて敵に赴き、応変は方(一定の型)に無かった。しかし大抵軍を馭するには厳整で、軍令に違反する者はただちに斬り一切の寛貸をしなかった。寇に臨むたびに人の過失を求めてこれを斬り、多い時には百余人、少ない時でも十数人を下らなかった。血が眼前に満ちても言笑は自若としていた。対陣に及んでは、まず一二百人を敵に赴かせ陣を陥せばよし、陥せずに戻ってきた者は多少にかかわらずことごとく斬った。さらに二三百人を進ませ戻れば同様の法を行った。将士は股慄し必死の心を持つに至り、これゆえ戦って勝たぬことなく名将と称された。
- 素は当時寵幸を得ており、言うことはすべて聞き入れられ、素に従って征伐に赴く者は微功でも必ず記録された。他の将は大功があっても文吏に譴責され却けられることが多かった。それゆえ素は厳忍であったが、士もこれゆえに願って従った。
漢王諒の乱の平定
- 素が行軍元帥として雲州から出て突厥を撃つと連戦連勝した。突厥が退走すると騎を率いて追跡し、夜になってこれに追いついた。再戦しようとしたが賊が逃げるのを恐れ、その騎をやや後方に留めさせた。そこで自ら二騎だけを率い、降った突厥二人とともに虜に並んで進んでも気づかれなかった。頓舎(野営)がまだ定まらぬのをうかがい、後方の騎を趣かせて掩撃し大破した。これより突厥は遠く逃げ、磧の南に虜庭は無くなった。
- 漢王諒が反すると茹茹天保を遣わして蒲州に拠らせ河橋を焼き断ち、また王聃子に数万人を率いて力を併せ拒守させた。素は軽騎五千人でこれを襲い、密かに渭口から夜に渡り夜明けとともに撃つと天保は敗走し、聃子は懼れて城を挙げて降った。詔により召し還された。
- 先に素が出征しようとする際、日数を計って賊を破ることをすべて予想通りとしていたため、帝はここで素を并州道行軍総管・河北道安撫大使とし、数万を率いて諒を討たせた。晋・絳・呂の三州はいずれも諒のために城守していたが、素はそれぞれ二千人でこれを牽制しつつ去った。諒は趙子開に十余万の衆を擁させ径路を柵で絶ち高壁に屯し陣を五十里に布いたが、素は諸将に兵をもってこれに臨ませ、自らは奇兵を率いて密かに霍山に入り崖谷伝いに進みその営に直指して一戦でこれを破り数万を殺傷した。
- 諒の置いた介州刺史梁修羅は介休に屯していたが、素の到来を聞いて懼れ城を棄てて逃げた。素は清源に進み并州まで三十里、諒はその将王世宗・趙子開・蕭摩訶らを率い、あわせて十万近い衆で拒戦したが、素はまたこれを撃破し蕭摩訶を捕らえた。諒は退いて并州を保ったが、素は進んでこれを囲み、諒は窮蹙して降り、残党もことごとく平定された。大業元年、尚書令に遷り、卒した。
史論
- 孫子は「敵人をして自ら至らしめる者は、これを利するなり」というが、素が鹿角を除いて突厥を至らせたのがこれに当たる。また「法令は行われるか」というが、素が人の過失を求めてこれを斬ったのがこれである。また「勝兵は先ず勝ちて後に戦う」というが、素が日数を計って賊を破ることがすべて予想通りであったのがこれに当たる。また「虞れざるの道に由り、その戒めざる所を攻む」というが、素が崖谷伝いに進みその営に直指したのがこれである。