十七史百將傳卷七 魏于謹

出自と柔然討伐

  • 于謹、字は思恭、河南洛陽の人。性は沈深で識量があり、経史をほぼ窺い、とりわけ『孫子』兵書を好んだ。郷里に閑居して仕官の志はなかった。ある人がこれを勧めると、謹は「州郡の職は昔の人が卑しんだ地位、台鼎の位は時が来るのを待つべきもの。私が郷邑で優游としているのは、しばらく歳月を過ごすためだ」と答えた。
  • 破六韓拔陵が北境で乱を首唱し蠕蠕(柔然)を援けに引き入れると、大行台僕射元纂がこれを討った。纂はかねて謹の名を聞いており、鎧曹従事に招いた。纂は謹に二千騎を率いて蠕蠕を追わせ、前後十七戦してその衆をことごとく降した。かつて賊に囲まれたとき、謹の乗る駿馬は一頭が紫毛、一頭が騧毛で賊に見知られていたため、二人にそれぞれ乗らせ陣を突かせて出した。賊はこれを謹だと思い争って追ったため、謹はその隙に塞へ入ることができた。
  • 当時魏末は乱れ群盗が蜂起していた。謹は諸国の言葉にも通じていたため、単騎で賊中に入り恩信を示した。これにより西方の鉄勒の酋長乜列河ら三万余戸が魏に款附した。帝はこれを嘉し積射將軍を授けた。

宇文泰への進言

  • また廣陽王元深に従って鮮于修禮を討ち、軍を中山に停めた。侍中元晏が霊太后に「廣陽王は宗室の至親として律を受け専征していますが、今、軍を停めたまま進まず、非望を図っているようです。また于謹という者があり知略人に優れ、その謀主となっています。風塵の隙に乗じ、陛下の純臣ではないのではと恐れます」と讒言した。霊太后は詔で尚書省門外に榜を立て、謹を捕える者に重賞を約した。謹はこれを聞くと廣陽に「今、女主が臨朝し讒佞を信用しています、もし殿下の素心を明らかにしなければ禍が至るでしょう。私が自ら身を束ねて闕に詣で、有司に罪を帰し、心胆を披露いたします」と述べ、元深はこれを許した。謹は榜の下に至り「私はこの人物を知っている」と言った。人々が問い詰めると謹は「私こそその者だ」と答えた。有司はこれを聞き奏上し、霊太后は召見して大いに怒ったが、謹は廣陽の忠款を詳しく述べ、軍を停めていることについては何も陳べなかった。霊太后の怒りは解け、謹は釈放された。
  • 賀拔岳が殺されると太祖(宇文泰)は平涼へ赴いた。謹は太祖に「魏の祚はすでに衰え、権臣が命を専らにしています。明公は世に超えた資質を持ち済世の略を懐き、四方遠近みなその心を寄せています。願わくば早く良図を建て衆望に副われますよう」と述べた。太祖が「どうしてそう言うのか」と問うと、謹は「関中は秦漢の旧都、昔は天府と称され、将士は驍勇でその地は膏腴です。今、その要害に拠り英雄を招集し、卒を養い農を勧めれば、時の変化を観るに足ります。しかも天子は洛陽にあって群凶に逼られています、もし明公が関右に都することを請えば帝は必ず喜んで遷るでしょう。その後、天子を挟んで諸侯に令し、王命を奉じて暴乱を討てば、桓公・文公の業も千載一遇の好機です」と答えた。太祖は大いに悦んだ。折しも勅で謹を関内大都督に召され、謹はさらに都を関中に定める策を進め、魏帝もこれを納れた。
  • まもなく齊の神武(高歓)が洛陽に迫ると、謹は魏帝に従って西遷した。太祖の邙山の戦いに従ったが、この役で大軍は不利であった。謹は麾下を率いて偽って降り、道の左に立った。齊の神武は勝ちに乗じて追撃し、これを疑わなかった。追撃の騎兵が過ぎ去った後、謹は背後からこれを撃ち、齊軍は乱れ、これにより大軍は全うされた。謹は柱国大將軍に進んだ。

江陵攻略

  • 初め、梁の元帝は侯景を平定した後、江陵に嗣立し、密かに齊氏と使いを通じ侵軼を謀っていた。その兄の子、岳陽王詧はときに雍州刺史であったが、梁の元帝がその兄の譽を殺したため恨みを結び、襄陽に拠って魏に来附し、王師の派遣を請うた。そこで謹に衆を率いて討伐に向かわせた。
  • 長孫儉が謹に「蕭繹(梁の元帝)のためにはどのような策があると思うか」と問うと、謹は「漢・沔に兵威を輝かせ席捲して江を渡り南は丹陽に拠るのが上策。城内の居民を移して子城に退き保ち、その陴堞を高くして時を稼ぐのが中策。もし動くことが難しければ、羅郭(外郭)を守るのが下策」と答えた。儉が「繹は必ずどの策を用いると思うか」と問うと、謹は「必ず下策を用いるでしょう」と答えた。儉が「上策を棄てて下策を用いるのはなぜか」と問うと、謹は「蕭氏は江南を保ち数紀を経ています。中原が多事のため外に略ることを構えず、また我らに齊氏の患いがあると考え、力を分けられないと見ているのでしょう。それに繹は懦弱で謀なく、疑い多く決断は少ない。愚民は事を始めるにあたって共に慮ることが難しく、みな邑居を懐かしみ移動を嫌うもの、それゆえ羅郭を保つ、この下策を用いるのです」と答えた。
  • 謹は中山王護と大將軍楊忠らに精騎を率いさせ先に江津に拠らせ、その逃げ道を断たせた。梁人は外城に木柵を立て広輪六十里に及んだ。まもなく謹は全軍でこれを囲んだ。梁主はしばしば兵を出して戦わせたが、謹に破られた。旬有六日にして外城はついに陥ちた。梁主は子城に退いて守ったが、翌日、太子以下を率いて面縛(両手を後ろに縛り顔を向けて降ること)して降り、まもなく殺された。謹は蕭詧を梁王に立て、軍を整えて凱旋した。

晩年

  • 太祖は自ら謹の邸に至り宴を開き語り合い、大いに歓を尽くした。謹は久しく権を執り、望みも位も重く、功名すでに立ったことから閑を保ちたいと願い、かつて自ら乗った駿馬と着ていた鎧甲を献上した。太祖はその意を察して「巨猾(強敵)がまだ平らげられていない、公がどうして独り安逸を求められようか」と述べ、受け取らなかった。謹は病により薨じた。謹は智謀があり上に仕えることに巧みで、名位が重くなるほどいよいよ謙譲を保った。朝参の往来ではいつも従者は二、三騎に過ぎなかった。朝廷は軍国の務めがあれば多くを謹に諮って決し、謹もまたその智能を尽くした。功臣の中でも特に信任を得、終始一貫して人に非難の言葉を挟まれることがなかった。

史論

  • 孫子は「退きて追うべからず」というが、謹が人に自分の馬に乗らせて敵の追撃を誤らせたのがこれに当たる。また「北を佯りて従うなかれ」というが、謹が偽って降り齊の神武を破ったのがこれである。また「これを策して得失の計を知る」というが、謹が蕭繹が必ず下策を出すと見立てたのがこれに当たる。また「内間は其の官人に因りてこれを用う」というが、謹が蕭詧が梁主と隙を結んだのに乗じてその来附を聞き入れたのがこれである。