出自と荊州経営
- 羊祜、字は叔子、泰山南城の人。武帝の滅呉の志を受け都督荊州諸軍事として南方に鎮した。学校を興し遠近の人心を懐柔、呉との間に信義を通じて降者の去来を自由にし、詭計で呉の石城守備を廃させ、屯田で軍糧を十年分蓄えるまでにした。
- 常に軽装で護衛も少数、畋猟に耽ることを軍司徐嗣に諫められて改めた。
西陵での失策と徳による懐柔
- 呉の歩闡が降ると詔により迎えに出たが、陸抗に大敗し、有司の弾劾により平南将軍に格下げされた。以後は険要を占め五城を築き、徐々に呉の地を奪った。
- 呉軍との戦いでは奇襲を用いず、正々堂々の対陣を旨とした。捕虜の子を送り返し、降将を厚遇し、戦死した敵将も礼を尽くして葬り遺族を送り返した。境を侵さず穀物も代価を払い、狩猟で得た獲物も呉側の物は返還するなど徳を示し、呉人は「羊公」と敬愛した。
- 陸抗と使者を交わし互いに徳を称え合い、抗の病に薬を贈ると抗は疑わず服用した(「羊祜が人を毒殺するはずがない」)。孫皓に詰問された抗は「一郷一邑ですら信義は必要、大国ならなおさら」と答えた。
滅呉策の推進
- 「阿童」の童謡から益州刺史王濬(小字阿童)を水軍の将に留め、密かに造船を進めさせた。
- 上疏して梁益・荊楚・徐揚青兗の諸軍を同時に進め呉の兵力を分散させる策を献じ、武帝はこれを容れたが、秦涼の乱もあり議論は割れた。祜は「天下意に叶わぬこと七、八割」と嘆いた。
- 病篤くなり入朝して伐呉を進言、張華に籌策を語り「呉は暴政甚だしく戦わずして克つべし、皓が没して名君が立てば長江も渡れなくなる」と説き、張華は深く賛同した。杜預を後任に推挙し、まもなく没した。
- 呉平定の一年前に没したが、南州の民は喪を聞き市を廃して哭泣し、襄陽の民は峴山に碑を建て(堕涙碑)、呉平定の際、武帝は「これは羊太傅の功」と涙して盃を挙げた。
史論
- 孫子の「国を全うするを上と為す」の通り、祜は徳信を修めて呉人を帰服させた。「進みて御すべからざる者はその虚を衝けばなり」の通り、祜は呉軍が一処傾けば全軍動揺すると見抜いた。「自らその地に戦うを散地と為す」の通り、祜は呉人が城に頼る心を見抜いたのがこれに当たる。