十七史百將傳卷六 吳陸遜
呉の武将陸遜(字は伯言)。孫権に仕え山越討伐で功をあげ、呂蒙と謀って関羽の荊州を奪取した。夷陵の戦いでは劉備の大軍を火攻めで大破し白帝城へ追い詰め、のち石亭の戦いで魏の曹休を破るなど呉の重鎮として活躍した名将。晩年は丞相となり没した。
出自と山越討伐
- 陸遜、字は伯言、呉郡呉の人。孫権の将軍時代から幕府に仕え「山賊を平らげねば遠図は図れない」と部隊編成の強化を献じ、帳下右部督となった。丹陽の賊帥費棧が曹操の印綬を受け山越を煽動すると、旗幟を多く見せかけ夜陰に乗じて奇襲しこれを破り、東三郡の兵民を整理して精兵数万を得た。
呂蒙との謀と荊州奪取
- 呂蒙が病と称し建業に戻る途中、遜は関羽への油断を誘うべきと進言、蒙も同意し、権に遜を後任に推薦した(遜は名声が薄く羽に警戒されないため適任とした)。
- 遜は陸口に赴くと羽へ謙遜した書を送り、于禁生擒の功を称えて油断させた。羽はこれを信じて油断し、遜は権に出撃の好機を報告、権が軍を進めると遜・蒙が先鋒となり公安・南郡を陥した。
夷陵の戦い
- 黄武元年、劉備が大軍で西境に迫ると、権は遜に五万の兵で迎撃させた。劉備は巫峡から夷陵にかけ数十の陣営を連ね、諸夷を誘い将を分けて配した。諸将は先遣の呉班を攻めようとしたが、遜は伏兵を疑い動かず、劉備の計を見抜いた。
- 遜は上表し「夷陵は国の要害、失えば荊州も危うい。劉備は水陸並進をやめ徒歩で陣を連ねているだけで変化はない、陛下は憂うるに及ばない」と述べた。諸将は長期対陣に苛立ったが、遜は「劉備の軍は当初こそ用心深いが今は疲弊し思慮も尽きている、今こそ好機」と判断、まず一営を攻めて失敗するも「もう破る術を得た」と各兵に茅一把を持たせ火攻めを命じ、四十余営を破って張南・馮習・沙摩柯らを斬った。劉備は馬鞍山に登り包囲されるが夜に逃れ、白帝城へ辛くも逃げ込んだ(「吾は遜に辱められた、天命か」と嘆いたという)。
- 孫桓が夷道で包囲され救援を求めた際も、遜は「城は堅く糧も足りる、策が整えば自然に解ける」と動かず、勝利後に孫桓に真意を悟らせた。
- 従わない諸将には剣を按じて軍令の厳守を説き、勝利後には「忍辱負重の心で藺相如・寇恂に倣った」と権に答え、権は大笑してこれを称え、輔国将軍・荊州牧に任じた。
石亭の戦いと晩年
- 劉備の没後、子劉禅を諸葛亮が輔佐し呉と和すと、権は遜に対蜀外交を任せ、権印まで遜の下に置いて禅・亮への文書を検閲させた。
- 黄武七年、鄱陽太守周魴の偽降策で魏の曹休を誘い込ませ、遜を大都督として迎撃させた。三道から進撃し休の伏兵を破って夾石まで追撃、万余を討ち取り、休はまもなく背中の腫物で死んだ(石亭の戦い)。
- 嘉禾五年、権の襄陽攻めに従軍中、使者が敵に捕らえられ諸葛瑾が動揺したが、遜は平然と豆を植え囲碁を続け、敵の意表を突いて船で退きつつ江夏方面を攻撃、多くの捕虜を得て手厚く扱い、また魏の武将同士の不和につけこみ偽書で離間工作を行った。
- 赤烏七年、丞相となり没した。子の陸抗が爵位を継いだ。
史論
- 孫子の「夜戦には火鼓多く、昼戦には旌旗多く」の通り、遜は費棧討伐で旗幟を増やし鼓角を分布させた。「その不意を突く」の通り、呂蒙の仮病で羽の不意を突く好機を作った。「卑にしてこれを驕らせる」の通り、遜は羽への書で謙り羽を油断させた。「その居やすき所は利あり」の通り、呉班が平地に営したのを罠と見抜いた。「その鋭気を避け惰帰を撃つ」の通り、劉備軍の疲弊を待って撃った。「民を愛せば煩わすべし」の通り、孫桓を救わずとも憂えぬとした。「我戦わんと欲せざれば、その向かう所を乖く」の通り、豆を植え碁を打ち敵を欺いた。「親しきを離す」の通り、偽書で魏将を離間したのがこれに当たる。