十七史百將傳卷五 蜀諸葛亮
蜀漢の丞相諸葛亮(字は孔明、建興十二年に享年五十四で没す)。劉備に三顧の礼で迎えられ隆中対で天下三分の計を説き、赤壁の戦いや益州平定を助けた。劉備の死後は後主劉禅を輔けて南征で南中を平定し、出師表を奉じて幾度も北伐を行ったが、五丈原の陣中で病没した。
出自と劉備との出会い
- 諸葛亮、字は孔明、琅邪陽都の人。隴畝を耕しながら梁父吟を好み、身長八尺、常に自らを管仲・楽毅に比した(時人はこれを認めなかった)。博陵の崔州平・潁川の徐庶とだけ親しく交わった。
- 劉備(先主)が新野に屯していた頃、徐庶が「臥龍」と推薦した。先主が三度訪ねてようやく面会がかない(三顧の礼)、人払いをして天下の計を問うと、亮は「曹操は袁紹に比べ勢力弱かったが克ったのは天の時だけでなく人の謀による」とし、曹操とは正面から争えず、孫権とは結ぶべきで図るべきでないとし、荊州・益州を取って天下三分の計を成すべしと説いた(隆中対)。先主はこれに従い、関羽・張飛の不満を「魚の水を得たるがごとし」となだめて亮を重んじた。
赤壁の戦いと荊州経営
- 劉表死去後、子の劉琮が曹操に降ると先主は南へ逃れ、亮は自ら孫権への援軍要請に赴いた。柴桑で観望していた孫権を説き、曹操軍は疲弊しており孫劉が力を合わせれば必ず勝てると論じて決断を促した。
- 権は周瑜・程普・魯粛らの水軍三万を送り、赤壁で曹操軍を破った(赤壁の戦い)。
- 先主は江南を得て亮を軍師中郎将とし、零陵・桂陽・長沙三郡の統治と軍需調達を任せた。
益州平定と丞相就任
- 建安十六年、劉璋が張魯討伐のため先主を迎えると、亮は関羽と共に荊州を守った。のち先主が劉璋を攻めると亮も張飛・趙雲らと合流して成都を包囲、平定後は軍師将軍となった。先主の出征中は亮が成都を鎮守し、兵糧を充足させた。先主の即位に伴い丞相となる。
白帝城の託孤と南征
- 章武三年、先主は永安で病篤くなり亮を呼んで後事を託し「才は曹丕の十倍、必ず国を安んじられる。もし嗣子(劉禅)が輔けるに足りなければ君が自ら取れ」と言い、亮は涙して忠誠を誓った。先主はまた後主に亮を父のごとく仕えよと詔した。
- 建興元年、亮は武郷侯に封じられ開府、まもなく益州牧も兼ね、政務の大小すべてを決した。南中諸郡の反乱には服喪のため出兵を控え、まず呉と和親を結んだ。建興三年に南征し、その秋に平定、軍資も豊かになった。
北伐と出師表
- 建興五年、漢中に進駐するにあたり上表し、先帝の恩に報い漢室を復興する決意を述べ、郭攸之・費禕・董允ら忠臣の重用と、向寵の登用を進言した(出師表)。
- 建興六年、趙雲・鄧芝に斜谷から郿を攻めると見せかけさせ魏の大将軍曹真を引きつけつつ、自らは祁山を攻めて南安・天水・安定三郡を降し、関中は震動した。魏明帝は長安に出て張郃に亮を防がせ、亮は馬謖に前軍を督させたが、謖は亮の指図に背き街亭で郃に大敗した。亮は退いて謖を斬り(泣いて馬謖を斬る)、自らも上表して三等の位を下げた。
- 同年冬、散関から陳倉を囲むも兵糧が尽きて撤退、追撃してきた魏将王双を撃破して斬った。
- 建興七年、陳戒に武都・陰平を攻めさせ、自らも建威に出て魏の郭淮を退け二郡を平定した。この功により丞相に復帰した。
- 建興九年、再び祁山に出て木牛で輸送、糧が尽きて退く際に魏将張郃を射殺した。
- 建興十二年、斜谷から出て流馬で輸送し武功の五丈原に拠り、司馬懿と渭水を挟んで対陣した。屯田策で持久を図り百余日対峙したが、同年八月、陣中で病没した(享年五十四)。撤退後、司馬懿は蜀軍の営塁を見て「天下の奇才なり」と嘆じた。諡は忠武侯。
- 亮は工夫に長け、連弩の改良や木牛流馬、八陣図はいずれも亮の考案である。
史論
- 孫子の「衢地には交わりを結ぶ」の通り、亮は孫権と結んで援けとした。「百里を行きて利を争えば三軍の将を失う」の通り、亮は曹操軍の強弩の末勢を見抜いた。「敵に勝ちて益々強し」の通り、亮は南夷を破ってその首長を用いた。「敵が我と戦えないのはその向かう所を乖かせるから」の通り、亮が門を開いて灑掃させると司馬懿は退いた。「法令の徹底」の通り、亮は馬謖の命令違反を斬って正した。「令が平素信頼されていれば衆と心を通わせる」の通り、亮が交代兵を留めなくとも軍士が感激したのがこれに当たる。