十七史百將傳卷五 魏鄧艾

魏の将軍鄧艾(字は士載)。棘陽の人で司馬懿に見出され、屯田や水利を献策して淮南北の軍糧を充実させた。姜維の侵攻を洮城の確保で退け、蜀漢平定戦では陰平の間道を経て奇襲し諸葛瞻を破って蜀を降した第一の功臣。のち功を誇り専断の疑いをかけられ、鍾会らの変事に乗じ子の忠とともに誅殺された。

年表(3件)
  • 正始二年済河論の献策により広漕渠が開かれ屯田策が実現した
  • 嘉平元年征西將軍郭淮とともに蜀の姜維を拒み洮城を確保して功により関内侯を賜った
  • 景元四年司馬文王の節度で蜀征討に加わり陰平から間道を進み諸葛瞻を破って蜀を降した

出自と屯田・水利の献策

  • 鄧艾、字は士載、棘陽の人。高山大澤を見るたびに軍営の位置を思案する癖があり人に笑われたが、司馬宣王(司馬懿)に見出され掾に辟され尚書郎に遷った。陳・項以東寿春までを視察させられた際、「良田は水少なく地力を尽くせぬ、河渠を開き水を引き軍糧を積み運漕の道も通すべき」と『済河論』を著して献策した。さらに「昔の黄巾討伐で屯田し許都に穀を積んだ故事に倣い、淮北に二万人、淮南に三万人を配し十二分の休みを繰り返し常に四万人が且つ耕し且つ守れば、水利豊かで西方の三倍を収穫でき、諸費を除いても年五百万斛を軍資に完納できる。六七年で三千万斛を淮上に積めば十万の兵の五年分の食に相当し、この勢いで呉を討てば克てぬはずがない」と説いた。宣王はこれを善しとし施行、正始二年に広漕渠が開かれ、以後東南への出兵は舟で江淮に達し食糧の備えも水害の憂いもなくなった。

洮城確保と辺境政策の建言

  • 嘉平元年、征西將軍郭淮とともに蜀の偏將軍姜維を拒んだ。維が退くと淮は西の羌を撃とうとしたが、艾は「賊は遠く去っておらず再び戻るかもしれぬ、備えを分けるべき」と白水北に留まった。三日後、維が廖化を白水南に向かわせ艾に対し陣を結ばせると、艾は「維は卒を戻すだけで我が兵は少ない、渡って橋を作らぬのは廖化に我らを牽制させ維自身は東の洮城を襲う計だ」と見抜き、夜のうちに密かに軍を進めて洮城を先取し、維が渡ってきた時にはすでに艾が城を確保していたため敗れずに済んだ。関内侯を賜り城陽太守に遷った。
  • 并州の右賢王劉豹が匈奴を一部にまとめたことに対し、艾は「戎狄は義に親しまず強ければ侵し弱ければ附す、周宣王の玁狁の寇や漢高祖の平城の困もこれによる、単于が外に出て牽制役の去卑を統べられなくなれば禍となる。劉豹部の叛胡を割いて二国とし勢いを分け、功のある去卑の子に顕号を与え雁門に住まわせるのが辺境を弱める長計」と上言し、また「羌胡と民が雑居するのは漸次分離させ廉恥の教化を及ぼすべき」とも述べた。大将軍司馬景王はこれらを多く採用した。汝南太守に遷ると荒野を開墾し軍民ともに豊かになり、兗州刺史に遷ると「国の急務は農と戦のみ、農は勝の本、積粟富民を考課の基準とすれば浮華の風は絶える」と上言した。

母丘倹の乱・王経救援・姜維との段谷の戦い

  • 母丘倹の乱に際し、艾は疑惑を煽る使者を斬り兼道で軍を進め楽嘉城で浮橋を作り、司馬景王が到着してこれを確保、文欽の大軍を城下で破り丘頭まで追撃、欽は呉へ奔った。艾は狄道で囲まれた王経を解き、姜維が鍾提に退くと安西將軍・仮節・領護東羌校尉となった。維の兵力が尽きて再出撃はできぬとの議論に対し、艾は「洮西の敗は小さくない、彼は上下慣れ武器も鋭いが我は将兵とも新手、彼は船で我は陸運で労逸が違う、狄道・隴西・南安・祁山を彼は一に専らでき我は四に分散せねばならぬ、南安・隴西から食を得て祁山を狙えば熟麦千頃が餌となる、賊は必ず来る」と五点を挙げ警戒を主張。維は果たして祁山に向かったが艾に備えがあると知り董亭から南安を目指し、艾は武城山で対峙、維は険を争って克てず夜に渭水を渡り上邽へ向かったところを艾が段谷で迎え撃ち大破した。

蜀漢平定

  • 景元四年、司馬文王の節度で諸軍が蜀を征した。艾は維と連携し、雍州刺史諸葛緒が維の退路を断つ役を担い、艾は天水太守王頎らに維の営を直撃させ隴西太守辛弘らに前を邀えさせ金城太守楊欣らを甘松に向かわせた。維は鍾会の軍が漢中に入ったと聞き引き返し、欣らが強川口で追撃し維は敗走。維は雍州が道を塞いだと知り橋頭に屯し孔函谷から北道に入り雍州の背後に出ようとしたが、諸葛緒は三十里退いた隙に維が橋頭を通過、緒はわずか一日差で捕捉できず、維は東へ剣閣に退いて守った。鍾会は維を攻めきれなかった。
  • 艾は「賊は摧折した、陰平から間道を経て漢徳陽亭を趨り涪に出れば剣閣の西百里・成都まで三百余里、奇兵で腹心を突ける。剣閣の守りが涪に戻れば鍾会は容易に進め、戻らねば涪への備えが手薄になる。攻其不備、出其不意」と上言し、無人の地七百余里を自ら陰平道から進み、山を穿ち橋閣を架け、糧運が窮するほど険しい道を氈で自らを包んで転がり下るほどの艱難を経て、将士も木や崖を伝う魚貫の行軍で進んだ。先鋒が江油に至ると蜀の守将馬邈が降った。蜀の衛將軍諸葛瞻は涪から綿竹に戻り陣を布いて待ち、艾が子の忠らを右に、司馬師纂らを左に出したが最初は苦戦して退いた。艾は怒って忠・纂を斬ろうとすると二人は取って返して激戦し大破、瞻を斬った。雒まで進むと劉禅は使者を送り降を請い、成都で禅が軍門に出頭すると艾はこれを受けて宥した。将士に略奪させず降附を緩やかに受け入れ旧業に復させたため蜀人はこれを称えた。鄧禹の故事に倣い制を承けて禅を行驃騎将軍に任じ、綿竹に京観を築いて戦功を彰し、戦死した士卒は蜀兵とともに埋葬した。

驕りと非業の死

  • 艾は自らの功を誇り蜀の士大夫に「諸君は某に遭ったから今日がある、呉漢のような将であれば殄滅されていただろう」「姜維も一時の雄児だが某と当たったゆえに窮した」と語り、識者に笑われた。詔書は艾の功を白起・韓信・呉漢・周亜夫にも比肩すると称え太尉に任じた。艾は司馬文王に、この勢いで呉を討つべきだが将士は疲労しており急がず、隴右兵三万・蜀兵二万を留めて塩を煮て冶を興し舟船も作って順流の備えをし、劉禅を厚遇して呉の孫休を招けば戦わずして呉は帰服すると説いたが、文王は監軍衛瓘を通じ「事は必ず報告してから動け」と諭した。艾はなおも「元悪が服した以上、承制して仮に任じ初めて附いた者を安んじるのは権宜に合う、遠く命令を待てば時を逃す、大夫が国境を出れば社稷の安泰・国家の利になることは専断してよいという春秋の義もある」と重ねて主張した。鍾会・胡烈・師纂らは艾の行動を悖逆とみなし変事を醸成、檻車で艾を召す詔が下った。艾の本営の将士は檻車の艾を追って奪還したが、衛瓘の遣わした田続らが綿竹西で艾に遭遇し斬った。子の忠も艾とともに死んだ。

史論

  • 孫子は「飽をもって飢を待つ」というが、艾が「五年分の食を積めば往くとして克たざる無し」と説いたのがこれに当たる。また「善く守る者は敵その攻むる所を知らず」というが、艾が先に洮城を確保し姜維が破れなかったのがこれである。また「我専にして敵分かる」というが、艾が劉豹の部を二国に割いて勢いを分けるよう願ったのがこれに当たる。また「虞をもって不虞を待つ」というが、艾が備えを持ち姜維が祁山から退いたのがこれである。また「その意わざるに出ず」というが、艾が無人の地七百里を進んだのがこれに当たる。また「人の国を毀つも久しきにあらず」というが、艾が時を超えず蜀を滅ぼしたのがこれである。また「進みて名を求めず、退きて罪を避けず」というが、艾が常道にとらわれず終に自ら嫌わなかったのがこれに当たる。