光武帝との出会いと蕪蔞亭の恩
- 馮異、字は公孫、潁川父城の人。読書を好み『左氏春秋』『孫子兵法』に通じた。光武が司隸校尉として父城を通ると門を開いて牛酒で迎え、主簿に任じられた。王郎挙兵後、光武が饒陽蕪蔞亭で寒さと飢えに苦しむ将兵に異が豆粥を献じ、南宮では暴風雨の中で薪を集め麦飯菟肩を供した。滹沱河を渡って信都に至ると異は河間の兵を集め、偏将軍に任じられた。
「大樹将軍」としての謙譲と洛陽攻略
- 異は謙虚で功を誇らず、諸将と行き会うと車を引いて道を譲り、軍中では独り木陰に休んで「大樹将軍」と呼ばれた。邯鄲攻略後、諸将の配下編成で兵士は皆大樹将軍への配属を望んだ。更始の朱鮪・李軼らが洛陽を守ると、光武は寇恂を河内太守、異を孟津将軍とし河上を守らせた。異は李軼に書を送り「明鑑は形を照らし、往事は今を知る所以」と説いて内応を促し、軼は以後異と争わなくなった。これにより異は北で天井関・上党を攻略、南で成皋以東十三県を下し、武勃を斬った。光武が軼の書を朱鮪に示すと、鮪は軼を刺殺させ、城中は離反者が続出した。異は陽夏侯に封じられた。
赤眉討伐と回渓の敗北からの回復
- 赤眉・延岑が三輔で暴れ鄧禹が鎮圧できずにいると、光武は異に代わらせ「掠奪でなく安集を旨とせよ」と命じた。異は華陰で赤眉と数十戦し劉始・王宣ら五千余を降した。鄧禹・鄧洪が合流を求めたが異は「まず恩信で誘い、諸将が東を、自分が西を攻めるべき」と反対、二人は従わず戦って赤眉に敗れた。異も禹に応じて再戦し大敗、麾下数人と回渓阪へ逃れたが、散卒を収め諸営数万を集めて赤眉と変装兵で乱戦し大破、男女八万を降した。璽書は「始め回渓で翅を垂れたが、ついに黽池で翼を奮った、東隅を失い桑楡を得たと言うべし」と労った。
「咸陽王」の讒言と隗囂討伐
- 異が関中に長く在り威権重しと讒言されると、異は恐れて上書し謙譲を示し、光武は「将軍と国家の間柄は君臣にして父子」と応えた。後年、光武は蕪蔞亭の豆粥・滹沱河の麦飯の恩を語り、異は管仲と桓公の故事を引いて忘恩なきを誓った。隗囂配下の行巡が栒邑を狙うと、異は諸将の慎重論を退けて先に城を占拠し、旗鼓を伏せて奇襲し行巡を大破した。異は後に病を得て軍中で薨じた。
史論
- 孫子は「親しみて之を離す」というが、異が李軼に書を送り朱鮪との仲を裂いたのがこれに当たる。また「乱して之を取る」というが、異が服を変えて赤眉を混乱させ勝ったのがこれである。また「先に戦地に処りて敵を待つ者は逸す」というが、異が先に栒邑を占拠し行巡を待ったのがこれに当たる。また「微なるかな微なるかな、無形に至る」というが、異が旗鼓を伏せて敵に気取られなかったのがこれである。