十七史百將傳卷二 前漢張良

張良は韓の名家の出。始皇帝暗殺未遂の後、黄石公から兵法書『太公兵法』を授かり、劉邦(沛公)に仕えて数々の献策で漢の天下統一を支えた智謀の臣。戦功こそないが「帷幄の中で策を巡らし千里の外で勝利を決した」として留侯に封じられ、のち道術を修めて世を離れた。

年表(1件)
  • 漢六年功績により留侯に封じられる

秦への復讐と黄石公の兵法書

  • 張良の先祖は韓の人。秦が韓を滅ぼすと、張良は家財を投じて力士に百二十斤の鉄椎を持たせ、東遊する始皇帝を博浪沙で狙撃したが誤って副車に当たった。秦の追捕を逃れて下邳に身を隠していたところ、橋の上で出会った老人にわざと履を落とされ、三度にわたって早朝の約束を試された末、『太公兵法』を授けられた。老人は「十年後に興り、十三年後に済北の穀城山下の黄石が私である」と告げて去った。

劉邦への従属と入関の助言

  • 陳勝の挙兵後、張良は沛公(劉邦)に合流し、『太公兵法』を説くと沛公はよくこれを用いた。沛公が秦の下軍を攻めようとした際、張良は「敵将は屠者の子で利に動かされやすい、まず旗を張って疑兵を示し重宝で誘い、油断に乗じて撃つべき」と献策し、大破して咸陽へ進んだ。秦王子嬰が降伏し沛公が秦宮に留まろうとすると、張良は「暴を除くために来たのに安楽に浸れば桀を助けるようなもの」と諫め、沛公は覇上に退いた。

鴻門の会と焼桟道の計

  • 項羽が鴻門で沛公を討とうとした際、項伯が密かに張良に危急を告げたが、張良は韓王への義理からこれを沛公に伝え、沛公と項伯を結び付けて危機を回避させた。漢王として蜀に封じられると、張良は「通ってきた桟道を焼き払い天下に東進の意志なきことを示せ」と献策し、項羽の警戒を解かせた。その後、張良は項羽に偽りの書を送って漢は関中のみを望むと信じさせ、また斉の反乱を告げて項羽の目を斉に向けさせた。

英布・彭越・韓信の登用進言

  • 彭城で漢が敗れた際、劉邦が関以東を誰に委ねるべきか問うと、張良は「項羽と隙のある九江王黥布、斉で反した彭越、そして大事を託せる韓信の三人を活かすべき」と答え、この三者の働きが後の楚の打倒を決定づけた。

郦食其の六国復興策への反駁

  • 滎陽で項羽に包囲された劉邦が、酈食其の勧めで六国の後裔を再封じて楚の勢力を削ごうとした際、張良は箸を借りて「湯・武の故事と異なり、今の陛下には項籍を制する力も、賢者を顕彰する余力も、武を偃せる状況もない。天下の遊士は日夜咫尺の地を望んで従っているのに、六国を復興すれば皆おのおのの旧主に帰り、共に天下を取る者がいなくなる」と八つの理由を挙げて反論した。劉邦は酈食其の策を取り消させた。

天下平定後の功績と諸策

  • 漢六年の論功行賞で、張良は戦功こそないが「帷幄の中で策を巡らし千里の外で勝利を決した」として斉の三万戸を与えられかけたが辞退し、下邳で沛公と出会った留の地のみを願って留侯に封じられた。
  • 論功が滞り将たちが謀反を疑われる不穏な空気が漂った際、張良は「まず最も恨まれている雍歯を先に侯に封じれば、他の者も安堵する」と進言し、劉邦がこれに従うと群臣は落ち着いた。都を洛陽にすべきとの意見に対しては「関中は険阻に囲まれ沃野千里、天下に変あれば流れに乗じて制せる金城千里の地」と説いて関中遷都を後押しした。
  • 黥布の反乱では自ら病と称して従軍を辞退し、「楚人は剽悍、争ってはならない」と進言した。天下平定後は「三寸の舌で帝者の師となり万戸を得た、この上は赤松子に従って仙道を学びたい」と述べ、辟穀・導引の術を修めて世を離れた。かつて黄石の老人と出会って十三年後、穀城山下で本当に黄石を見つけ、これを大切に祀った。

史論

  • 孫子は「約なくして和を請う者は謀りごとがある」と説くが、張良が秦将を賄賂で油断させて撃ったのはこれに当たる。また「智者の慮は必ず利害を雑える」というが、箸を借りて酈食其の説を破ったのもこれ、「善く戦う者に智名なく勇功なし」というが、張良自身は戦功を持たなかったこと、「廟堂の上にて事を決す」というが帷幄の中で千里の勝利を定めたこと、「鋭卒は攻めず」というが楚人と争うなと進言したことも、いずれもこれに当たる。