登用の経緯
- 司馬穰苴は田完の末裔。斉の景公の代、晋・燕の侵攻に斉軍が敗れて景公が憂えた際、晏嬰が「穰苴は庶流の出だが文武に優れる」と推挙し、景公は将軍に任じて燕・晋を防がせた。
荘賈の処断による軍紀の確立
- 穰苴は「自分は身分低く軍に威が及ばぬので、君の寵臣で国の重んずる者を監軍としたい」と願い、荘賈が遣わされた。約束の刻限に穰苴は先着して準備を整えたが、荘賈は親戚に見送られて酒宴に興じ、日中を過ぎても現れなかった。穰苴は日時計を倒し漏刻を捨てて軍令を布告し、夕刻にようやく現れた荘賈に対し「将たる者は家を忘れ、軍にあっては親を忘れ、鼓を握れば身を忘れるもの」と諭し、軍法に照らして斬に処した。三軍はこれに震え上がった。
- 景公が使者を送って荘賈の赦免を命じたが、既に間に合わず、穰苴は「将、軍にあれば君命も受けぬ場合がある」として、軍中を馬で疾駆した使者の従者・馬車の左驂を斬って軍規を示し、使者を送り返した後に出陣した。
士卒との労苦の分かち合いと戦功
- 穰苴は宿営・食事・治療のすべてに自ら気を配り、将軍の食糧を全て士卒に分け与え、最も弱った者にも意を用いた。三日にして兵を進めると、病者までもが先を争って出陣を志願した。晋・燕の軍はこれを聞いて撤退し、斉は失地を回復して凱旋した。景公は大司馬に任じ、田氏は斉での声望を高めた。後に鮑氏・高氏らの讒言で退けられ、穰苴は病を発して没した。斉の威王は後にその兵法を大いに用い、諸侯は斉に朝した。威王は司馬兵法を編纂させ、その中に穰苴の説を加え『司馬穰苴兵法』と名付けた。
史論
- 孫子は「これに令するに文をもってし、これを斉うるに武をもってする」と説くが、穰苴が文武ともに衆望を得たのはこれに当たる。また「法令の徹底」については荘賈を斬って三軍を戒めたこと、「戦わずして人の兵を屈す」については士卒が争って出陣し燕・晋が自ら退いたことがこれに当たる。