出自と登用
- 太公望呂尚は東海のほとりの人。先祖は呂に封じられ、その封地の姓を名乗って呂尚と称した。困窮し老いてなお渭水のほとりで釣りをしていたところ、狩りに出た西伯(後の文王)が卜占で「得るのは覇王を輔ける者」と占った通りに太公と出会い、語り合って大いに喜び、「わが先君太公が待ち望んだ人物」であるとして太公望と号し、都へ連れ帰って師とした。
- 別伝では、呂尚は海辺に隠れ住み、西伯が羑里に幽閉された際、散宜生・閎夭が呂尚を招き、三人で美女・珍宝を紂王に献じて西伯を釈放させたともいう。西伯は帰国後、呂尚と密かに謀り徳を修めて商の政を傾けた。その計略の多くは兵権と奇計によるもので、後世、兵法や周の陰謀を語る者は皆、太公を本祖と仰いだ。
武王を輔けての滅商
- 文王の死後、武王が父の事業を継ごうとし、呂尚を師尚父として軍を進めた。殷討伐に際して亀卜が不吉と出て暴風雨に見舞われ、諸公は皆恐れたが、太公一人が強く進軍を主張し、決行させた。武王は殷を平定した後、師尚父を斉に封じた。
史論
- 孫子は「明君賢将は上智の者を間者として用いてこそ大功を成す」と説くが、周が太公の陰謀の権謀によって王業を興したのはまさにこれに当たる。