十六国春秋北涼錄一 沮渠蒙遜

張掖臨松の盧水胡人で、匈奴の沮渠の官職を姓とした沮渠蒙遜(享年六十六)。雄桀で策略に富み、学を好んで天文にも通じ、梁熙・呂光にも憚られた。呂光に伯父羅仇らを殺されて挙兵し、段業を擁立したのち業を殺して自立した。南涼を圧迫し西涼の李氏を滅ぼして河西を統一、河西王・涼王と称した北涼の主。仏事を篤く弘めた。

年表(25件)
  • 神璽元年従兄男成と共に段業を大都督・涼州牧・建康公に推し、張掖太守となる
  • 神璽二年呂純を陥落させ、呂弘討伐に敗れた段業を救援する
  • 天璽元年段業が涼王を僭称し、尚書左丞に任じられる
  • 天璽二年業に雄武を恐れられて遠ざけられ、自らを軽んじた馬権を讒言して殺す
  • 永安元年共謀を偽装する策で男成を段業に誅殺させ、これを名分に挙兵する
  • 永安元年田昂の寝返りで業軍は潰え、助命を請う段業を斬る
  • 永安元年六月大将軍・涼州牧・張掖公に推され、永安と改元する
  • 永安四年後秦から鎮西大将軍・西海侯に任じられ、爵位の低さに不満を述べる
  • 永安七年安彌で西涼の李暠に敗れる
  • 永安十一年窮泉で禿髪傉檀を大破し、姑臧まで進んで夷夏数千戸を降す
  • 永安十二年姑臧の焦朗を捕らえ、楽都を包囲して傉檀の降伏と人質を得る
  • 玄始元年412年姑臧に遷都し謙光殿で河西王を称し、玄始と改元して百官を整える
  • 玄始二年傉檀を繰り返し攻め、湟河太守文支ら配下の降伏が相次ぐ
  • 玄始三年南涼の残存勢力が次々に帰順する
  • 玄始四年西秦の乞伏熾磐と激しく戦い、勤姐嶺で大破する
  • 玄始五年夏東晋へ上表し、河西の兵を晋の右翼として提供する意を表明する
  • 玄始七年大旱に自らを責める詔を発して大赦するが、諌めた臣下を殺すほど苛烈であった
  • 玄始七年秋李歆を誘い出そうとして解支澗で敗れ、成都の諌めで軍を戻す
  • 玄始八年計略で李歆を懐城に誘って斬り、酒泉と燉煌を陥れて李氏を滅ぼす
  • 玄始八年冬宋から涼州刺史に任じられる
  • 玄始十五年426年北魏の世祖から河西王に册封される
  • 承玄元年428年乞伏暮末との捕虜交換交渉を経て承玄と改元する
  • 義和元年431年赫連定が慕璝に捕らえられ、義和と改元して子の安周を魏へ人質に送る
  • 義和二年使者李順に無礼を働くが、斉桓公の故事を引かれて謝し礼を尽くす
  • 義和三年夏433年病床につきまもなく薨じる。偽位三十三年、年六十六

出自と人物像

  • 沮渠蒙遜、もと張掖臨松の盧水胡人である。匈奴には左沮渠・右沮渠の官があり、蒙遜の先祖はかつてこの職にあったため、それを姓とした。祖父の祁復延は北地王(北は一に狄、また乞に作る)に封じられ、父の法弘の跡を継いだ蒙遜は雄桀で策略に富み学を好み天文にも通じ、梁熙・呂光はいずれもこれを奇として憚った。

羅仇・麹粥の死と挙兵

  • 呂光が蒙遜の伯父羅仇・その弟麹粥に乞伏乾帰を討伐させ前軍が敗れると、麹粥は羅仇に挙兵を勧めたが、羅仇は「我が家は代々忠孝を著してきた、人が我に背いても我が人に背くことはすまい」と応じた。まもなく光は讒言を信じ敗軍の罪で羅仇と麹粥を殺した。
  • 蒙遜は喪を葬った際、会葬の一万余人に「呂王は昏耄無道、上は先祖の志を継がず下は二人の父に恨みを残させることになる」と訴え、衆は挙兵に応じた。光の中田護軍馬邃を殺し臨松郡を攻め、旬日で衆一万余に達したが、呂纂の迎撃を受け山中へ逃げ込んだ。

段業の擁立

  • 従兄の晋昌太守男成も蒙遜に呼応して挙兵し酒泉太守畳滕(一に塁澄に作る)を殺した。蒙遜は男成と共に建康太守段業を大都督・涼州牧・建康公に推し、神璽と改元した。業は蒙遜を鎮西将軍・張掖太守とした。
  • 神璽二年、蒙遜は呂純を陥落させ功を挙げたが、業は呂弘討伐の際に蒙遜の「窮寇を追うな」との諌めを聞かず敗れ、蒙遜の救援でようやく免れた。業は「子房(張良)の言を用いなかった」と嘆いた。冬、業は臧莫孩を西安太守としたが、蒙遜は「これは彼のために墓を築くようなものだ」と評した。

段業との確執

  • 天璽元年、業は涼王を僭称し蒙遜を尚書左丞とした。呂光の子紹・纂の来攻に際し、蒙遜は「楊軌は鮮卑(一に虜騎に作る)の強さを頼み野心を抱いている、今戦えば累卵の危うさがある」と諌め業を思いとどまらせた。
  • 天璽二年、業は蒙遜の雄武を恐れ遠ざけようとし、蒙遜を軽んじた馬権を蒙遜は讒言して殺した。蒙遜は男成に業排除を持ちかけたが、男成は「業は我ら兄弟を魚が水を得たように頼っている」と諌め、蒙遜は思いとどまった。

男成の粛清と蒙遜の挙兵

  • 永安元年、業に憚られた蒙遜は西安太守就任を求め、これを機に男成との共謀を偽装する策を用いて男成を業に誅殺させた。男成は死に際し「蒙遜の謀反を隠して言わなかった私が死ねば蒙遜は必ず事を起こす、私の罪を暴いて蒙遜を挙兵させ討て」と訴えたが業は聞かず殺した。
  • 蒙遜は男成の死を「段王は理由なく忠臣を屠り殺した」と衆に訴え、男成の人望もあって衆はたちまち一万を超え、羌胡も呼応した。

段業の滅亡

  • 業配下の右将軍田昂は業の疑いを解かれ蒙遜討伐に向かったが、蒙遜軍と接すると寝返り業軍は大潰した。張掖では田昂の甥承愛が内応し、業は「私は単瓢(一に飄に作る)一つの身、貴門(蒙遜)に推されて立った、余命を乞う」と訴えたが蒙遜は許さず斬った。業は史伝に通じた文人肌の人物で、権略なく配下が専断し卜筮讖記ばかりを信じたため奸佞に誤られたという。

永安改元と涼州の統一

  • 六月、梁中庸・房晷・田昂らは蒙遜を大将軍・涼州牧・張掖公に推し、永安(白帖には永和に作る)と改元した。この月、燉煌太守李暠も挙兵し庚子と改元、蒙遜と対抗した。
  • 秦との和好を通じる一方、西涼への帰順を図った部下挐の進言で蒙遜は張潜を斬り自立を保った。禿髪利鹿孤との人質を巡る駆け引きが決裂すると、利鹿孤は昌松侯(一に張松に作る)禿髪俱延・興城侯禿髪文支に一万騎を率いさせ蒙遜領へ侵攻させたが、蒙遜はまもなく和を修め涼州各地の平定を進めた。

秦との爵位を巡る駆け引き

  • 永安四年、秦は蒙遜を鎮西大将軍・西海侯に任じたが、同時に禿髪傉檀を車騎将軍・広武公としたため、蒙遜は「傉檀は上公なのに私はなぜ侯なのか」と不満を述べた。使者張構は「朝廷は爵位を功に応じて与える、竇融でさえ固辞した」と弁じ、遠く西海に封じたのは将軍の国を広げる意図だと説明すると、蒙遜は大いに喜んで受け入れた。

永安年間の国土拡大

  • 永安五年から十年にかけて、蒙遜は西涼の李暠、南涼の禿髪傉檀との攻防を繰り返した。永安七年には安彌(一に安珍に作る)で李暠に敗れたが、永安八年には楊統を降し、瑞祥を根拠に「王気が成ろうとしている」と自信を深めた。両月(一に日に作る)同時出現などの天変も記録された。

対傉檀決戦と姑臧攻略

  • 永安十一年、蒙遜は禿髪傉檀を討ち、窮泉で「傉檀は我らを侮り備えを怠っている」と進撃し大破、姑臧まで進んで夷夏数千戸を降した。傉檀は南の楽都へ逃れた。秋、蒙遜は李暠の子歆を馬廟で破ったが将朱元虎は帰した。
  • 永安十二年、蒙遜は姑臧に拠った焦朗を捕らえたが赦し、楽都を包囲して傉檀の降伏(子の人質差し出し)を得た。李暠の子歆は蒙遜の遣わした沮渠百年を捕らえるなど反撃も見せた。

河西王への即位(玄始元年)

  • 玄始元年(412年)、蒙遜は姑臧に遷都し謙光殿で河西王を称し玄始と改元、呂光の故事に倣い百官を整えた。

玄始二年〜三年 - 南涼滅亡への圧迫

  • 玄始二年、蒙遜は禿髪傉檀を繰り返し攻め、湟河太守文支ら傉檀配下の降伏が相次いだ。冬、蒙遜は「傉檀は旧京に鴟のように蟠踞し東苑での殺戮は長平の惨劇にも勝る、四支(傉檀の勢力)はすでに落ちた」と詔を発した。玄始三年、南涼の残存勢力も次々に帰順した。

東晋への上表と西秦との攻防

  • 玄始四年から五年にかけて、蒙遜は西秦の乞伏熾磐と激しく戦い、勤姐嶺で大破するなど戦果を挙げ、前将軍沮渠成都(一に城都に作る)に卑和を討たせた。夏、東晋へ上表し、劉裕の中原回復を晋の中興の兆しと称え、河西の兵を晋の右翼として提供する意志を表明した。夏の赫連勃勃とも盟約を結んだ。

玄始六年〜七年 - 内政と苛烈な統治

  • 玄始六年、西域から呑刀吐火の秘術が貢がれ「遊林堂」を建てて聖賢の像を並べた。玄始七年、大旱に際し自らを責める詔を発し大赦したが、劉裕が姚泓を滅ぼしたと聞くと激怒し、進言した臣下を「研研然(倔強な様子)」と罵って殺すほど苛烈であった。

李歆の滅亡と燉煌の陥落

  • 玄始七年秋、蒙遜は李歆を誘い出そうとしたが解支澗(一に西支澗に作る)で敗れ、前将軍成都の「高祖も彭城で敗れた」との諌めで軍を戻した。冬、秦の旧将姚艾が来奔し、群臣の求めで綱紀の粛正も行われた。
  • 玄始八年、太史の予言を受け「南行すべきだが(一に当に作る)」と述べた蒙遜は、まず浩亹(音は閣門)を攻めようとした際、帳の前にとぐろを巻く蛇を見て「先には騰蛇(『通典』には塍蛇に作る)となったが、今は我が帳の前にいる、天意は先に酒泉を定めよと言っている」と述べ軍を戻し、計略で李歆を誘い出し懐城で破り、歆と兄弟三人を斬った。酒泉を陥落させ善政を敷き、燉煌に拠った歆の弟恂も水攻めの末に滅ぼし、李氏はここに滅亡した。鄯善王や西域三十六国もみな蒙遜に称臣した。

宋との通交と西秦・柔然との戦い

  • 冬、宋は蒙遜を涼州刺史とした。玄始十年から十四年にかけて、蒙遜は西秦の乞伏熾磐・暮末父子と一進一退の攻防を繰り返し、熾磐の遣わした征北将軍出連虔(一に没奕干に作る)の精騎五千(一に六千に作る)に前将軍成都が破られるなど苦戦もあり、晋昌太守唐契の反乱や柔然との戦いで世子政徳を失うこともあった。

河西王への册封と北魏への服属

  • 玄始十五年(426年)、北魏の世祖(諱は燾)は蒙遜を河西王に册封した。承玄元年(428年)、乞伏熾磐の死後、暮末との捕虜交換交渉を経て承玄と改元した。承玄三年、蒙遜は北魏へ上表し、世祖は使者宗舒を崔浩に紹介し「才略の美は当今並ぶ者がない」と評した。

義和改元と赫連定の捕獲

  • 義和元年(431年)、赫連定は魏の圧迫を逃れ蒙遜の地を奪おうとしたが、渡河の途中で吐谷渾王慕璝に敗れ捕らえられた。蒙遜は義和と改元し子の安周を魏へ人質に送った。世祖は崔浩の推薦で尚書李順を使者に選び、蒙遜を涼王に封じ九錫の礼を加える册書を与えた。

李順との対面と問答

  • 義和二年、李順が涼へ使いした際、蒙遜は無礼な態度を取り順を怒らせたが、斉桓公の故事を引かれると謝罪し礼を尽くした。両者は魏の武功と涼州の民心について問答を交わし、蒙遜は魏の頻繁な征伐に懸念を示したが、順は聖王の用兵の理を説いて応じた。

曇無讖事件

  • 罽賓の沙門曇無讖は鄯善で不祥事を起こし涼州へ逃れ、蒙遜に「聖人」と崇められ男女交接の秘術を教授していた。魏の世祖が引き渡しを求めると、蒙遜は「共に死んでも渡せない」と拒んだが、後に事が発覚し曇無讖は誅殺された。

李順の評価と蒙遜の死

  • 順は世祖に「蒙遜には礼も敬もなく久しく禄福を享受できまい」と評すると、世祖は「その子はきっと代替わりが早いだろう、代替わりの後、いつ(一に何時に作る)滅びるか」と問い、順は「子孫への長期的な計もない、燉煌太守牧犍(すなわち茂虔)が跡を継ぐだろうがみな父に及ばない」と応じ、世祖は「数年のうちに滅びるだろう」と述べた。
  • 蒙遜は晩年、荒淫で猜疑深く残虐となった。義和三年(433年)夏、病床につき昼間から鬼を見るほどであったが、まもなく薨じた。晋の安帝隆安五年に自立してより偽位にあること三十三年、時に年六十六。子の茂虔が跡を継いだ。
  • 蒙遜は仏事を篤く弘め、涼州南方の崖に大規模な石窟仏像を造らせた。土製の聖僧像は人と同じ大きさで常に経行しているように見え、通行人が近づくとその歩みが止まったように見えたという不思議な逸話が伝わる。