十六国春秋西秦錄一 乞伏國仁

起源伝説と部族の成立

  • 乞伏国仁は隴西の鮮卑人である。その先祖には如弗斯引・出連・叱盧の三部があり、漠北から南下して太陰山を越えた際、道で巨大な虫(大蛇か龍の類)に出会った。その姿は神亀のようで丘ほどの大きさがあり、一行は馬を殺してこれを祭り「善神ならば道を開け、悪神ならば塞いで通すな」と祈ると、その巨虫はにわかに姿を消し、代わりに一人の幼児がそこに残されていた。ちょうど乞伏部に子のない老人がいて、これを養子に望むと衆はみな許した。老人は喜んでこれを頼みとし、紇干(夏の言葉で「頼るもの」の意)と名づけた。
  • 紇干は十歳にして驍勇で騎射に優れ、五百斤の弓を引くほどであったため、四部はその武勇に服し統主に推し「乞伏可汗託鐸莫何」(神でも人でもないものの意)と号した。

歴代の系譜と勢力拡大

  • その後、国仁の五世祖祐隣は晋の泰始初年(265年頃)、戸五千を率いて夏の地に遷り、部衆はしだいに盛んになった。鮮卑鹿結の七万余落と高平川で相争い、鹿結は敗れて略陽へ逃れ、祐隣はその衆をことごとく併合してそこに拠った。祐隣が死ぬと子の結権が立ち牽屯へ移り、結権が死ぬと子の利那が立って鮮卑吐頼を烏樹山で撃ち尉遅渇権を大非川で討ち三万余落を併せ収めた。利那が死ぬと弟の祁埿が立ち、祁埿が死ぬと利那の子述延が立って鮮卑莫侯を苑川で大破し二万余落を降し、そのまま苑川に拠って隣接する部族を併呑、士馬強盛となり叔父の軻埿を師傅として国政を委ね、各将軍を要地に配した。
  • 述延が死ぬと子の傉大寒が立ち、石勒が劉曜を滅ぼした際にこれを恐れ麦田無孤山(晋記には元孤山に作る)へ遷った。大寒が死ぬと子の司繁が立ち、秦の皇始年間に度堅山へ遷った。建元七年(371年)、秦の将益州刺史王統が討伐に来ると、司繁は騎兵三万で苑川に拒んだが、統はひそかに度堅山を襲い部衆五万余落はことごとく統に降った。司繁は「知恵で敵を拒めず徳で衆を撫でられず、剣を交えぬうちに本拠が敗れてしまった、衆が離散すればその勢いを保つのも難しい、諸部に奔ってもきっと受け入れられまい、私は呼韓邪単于の故事に倣おう」と嘆き、部落を率いて統に、さらに苻堅に降った。堅は大いに喜び南単于に任じ長安に留めた。司繁の従叔吐雷を勇士護軍としその部衆を撫めさせた。まもなく鮮卑勃寒が隴右を侵すと、堅は司繁を使持節都督征討西胡諸軍事・鎮西将軍としてこれを討たせ、勃寒は恐れて降伏、司繁は勇士川を鎮めて大いに威恵があった。司繁が没すると子の国仁が立った。

苻堅への反旗と自立

  • 堅の寿春の役(淝水の戦い)に際し、国仁は前将軍として先鋒騎兵を率いるべく徴発されたが、折しも国仁の叔父歩頽が隴右で反乱し、堅は国仁を戻してこれを討たせた。歩頽はこれを聞いて大いに喜び道で国仁を出迎えた。国仁は酒宴を開き袖をまくって大声で「苻氏はかつて趙石(後趙)の乱に乗じて妄りに名号を盗み、兵を窮め武を黷し八州にまたがって僣称した、天下がすでに安んじたなら徳をもって綏めるべきなのに、いたずらに威声を広げ遠略に勤しみ蒼生を騒がせ中国を疲弊させた、天に逆らい人を怒らせてどうして事が成就しようか、物が極まれば欠け禍が満ちれば覆るのが天の道である、私が推し量るに、この戦役は敗れを免れまい、私は諸君と共に一方の覇業を成し遂げよう」と語った。堅が(淝水で)敗れると、国仁は帰国して部落を威圧し、従わない者は撃って併合し、衆は十余万に達した。

大都督・大単于への即位

  • 建義元年(385年)、苻堅が姚萇に殺されると、国仁は豪帥たちに「苻氏は世に抜きん出た資質を持ちながら烏合の衆に苦しめられた、まさに天命というものだ、常道を守り運命に迷うのは先達の恥じるところ、機を見て動くのが英豪の行いである、私は薄徳とはいえ累代の資を頼みに、時運の到来を目にして動かずにいられようか」と語り、晋の孝武帝太元十年(385年)、自ら大都督・大将軍・大単于を称し秦・河二州の牧を領し、秦の建元二十一年を改めて建義元年とした。乙旃童埿(童は一に音に作る)を左相、屋引出支を右相、独孤匹蹄を左輔、武羣勇士を右輔、弟の乾帰を上将軍とし、他もそれぞれ官を授けた。地を分けて武城・武陽・安固・武始・漢陽・天水・略陽・漒川・甘松・匡朋・白馬・苑川の十二郡を置き、勇士都城を築いて居とした。鮮卑匹蘭は衆五千を率いて降った。

諸部族との戦いと国仁の死

  • 建義二年(386年)春正月、南安の祕宜が諸羌胡五万余人を率いて四方から攻め寄せると、国仁は「先に手を下せば人の戦意を奪える、座して敵の到来を待つべきではない、威を抑え敵を誘い弱兵を見せて驕らせるのが兵法にいう『我を怒らせ怠らせる』というものだ」と述べ、五千の兵で不意を襲い大破した。祕宜は南安へ逃げ帰ったが、秋七月には弟の莫侯悌眷とともに三万余戸を率いて降った。
  • 建義三年(387年)春三月、秦の苻登は使者を遣わし国仁を使持節・大都督・大将軍・大単于・苑川王に任じた。夏五月、国仁は騎兵三万で鮮卑の三部族を六泉に襲い、秋七月には高平鮮卑没弈干・東胡金熙の連合軍を渇渾川で大破し、恐れをなした周辺三部族はみな帰順した。この年、「建義」と銘した刀一口を作らせた。
  • 建義四年(388年)春三月、建威将軍叱盧烏孤跋が牽屯山で反乱したが討ち平らげ帰順を許した。夏四月には鮮卑越質叱黎を平襄で大破し五千余人を降した。六月、国仁は死んだ。在位四年、偽って宣烈王と諡し廟号を烈祖とした。