占術による予言の的中
- 郭黁は西平の人。若くして式易(占術)に明るく天文占候に優れ、郡主簿として張天錫に仕えた。天錫の晩年、太守趙凝が黁に占わせると「二月十五日に郡内で失囚が出れば涼の祚は終わるだろう」と述べ、果たしてその通りとなった。苻堅の晩年、当陽門が震動した際にも、黁は「外国の二王が朝貢し、一人は帰国し一人はこの城で死ぬ」と予言し、後に鄯善王と前部王の朝貢の際にその通りとなった。
呂光への出仕
- 光が河西の王となった際、西海太守王楨の叛乱を光の左丞寶は襲撃に反対したが、黁は「もし成功しなければ私が自ら誅を受けよう」と主張してこれを勧め、光は勝利を収めた。以後、光は黁を京房・管輅になぞらえ機密にも参与させ散騎常侍・太常を兼ねさせた。光が乞伏乾帰を討とうとした際には出兵に反対し、太史令賈曜との間で天文をめぐる駆け引きもあったが、黁の予言はことごとく的中したという。
反乱と光の孫たちの惨殺
- 後に黁は光の老いと衰えを見て、僕射王詳(一に「祥」)と共謀し乞伏乞基を主に推す反乱を計画したが事は漏れ、黁は東苑に拠って反乱した。百姓は「聖人が事を起こせば成らないことはない」と言い合い旬日を待たず衆数千に及んだ。光の孫八人がもとより東苑にいたため黁に捕らえられ、纂が黁の軍を撃破すると黁は激怒してこの幼い王孫らをことごとく刃にかけ、その血を飲んで衆に誓わせた。見る者は皆目を覆ったが黁は悠然として自若としていたという。
予言者としての最期
- 黁は光と呂統の死期についても正確に言い当て、また「涼州の謙光殿にはやがて鮮卑が居することになる」と語っていたが、後に禿髪傉檀・沮渠蒙遜が相次いで姑臧に拠ったこともその通りとなった。黁は性格が偏狭で酷薄であり士庶に慕われず、戦いに敗れて西秦に降り、乾帰が敗れると姚興に仕えて太史令となった。黁は「姚を滅ぼすのは晋である」と考え妻子を連れて南へ奔ろうとしたが追手に殺された。