戦陣の母と孝心への葛藤
- 特の妻羅氏、略陽の人、僕射羅演の妹。蕩と雄を生んだ。時に蕩らは北営に屯していたが、羅尚が牙門左汜・黄誾を遣わし営を攻めさせ、氐族の符成・隗伯が営中で叛きこれに呼応した。羅氏は甲を着て応戦、伯は手ずから斬りつけ顔を傷つけたが、羅氏の奮戦は止まず気概はますます激しくなり、蕩は帰還し難を免れることができた。雄が成都王を称すると王太后に尊ばれ、帝位に即くと皇太后に尊ばれた。雄の玉衡元年(311年頃)に卒した。
- 雄は巫覡の言葉を信じ多くの忌諱を持ち、羅氏を葬らないでおこうとまでしたが、司空趙肅が切に諫めたため、雄はこれに従った。また三年の喪の礼を尽くそうとしたが、群臣の多くが諫めても聞き入れなかった。太傅驤は司空上官惇に「いま国難がまだ鎮まっておらず(一に「彌」とも)、私は固くお諫めしたいがお聞き入れいただけない、主上が最後まで諒闇(喪に服すること)を貫かれれば、君はどう思われるか」と問うと、惇は「三年の喪は天子から庶人に至るまでの決まり、それゆえ孔子も『どうして高宗だけであろうか』と述べています、昔の人々はみなそうでした、ただ漢魏以来、天下には多難が続き宗廟はこの上なく重く、久しく空けておくことはできません、それゆえ喪服を脱ぎ哀を尽くすだけにするのです」と答えた。驤は「任回がまもなく至る、この人物は事を決するのに長けている、しかも主上はかつてその言葉に逆らったことがない、彼が至るのを待って共に諫めよう」と述べた。任回が至ると驤と共に入見し、驤は冠を脱ぎ涙を流し公除(喪を早めに切り上げること)を固く請うた。雄は号泣し許さなかった。回は跪いて進み「いま王業は初めて建てられたばかり、あらゆることが始まったばかりです、一日でも主がいなければ天下は動揺します、昔武王は素甲のまま兵を観閲し、晋の襄公は喪服のまま出征しました、これは望んでのことではなく、天下のために自らを抑えたのです、どうか陛下、情を割いて権に従い、永く天の恩恵を盛んにしてください」と述べた。そこで人々は無理に雄を助け起こし喪服を脱がせ親政させると、雄は涙ながらにこれに従った。