戦功と壮絶な最期
- 常據(一に張璩とも)、字は元琰。燉煌の人。十四歳で奉車都尉を拝命、梁粛に従い隴右を征し、王擢と邢岡で遭遇し十余日対峙、拠は枚を含み密かに撃ち大破した。これにより名を知られ寧戎校尉に遷った。麻秋が枹罕を攻めた際、拠は大城を固守、秋は兵を率い城の西北隅を包囲、拠は宋脩らに防がせ白兵戦の末に二百余人を捕斬すると、秋の軍は退いた。
- 重華の時代、騎都尉として仕え、性格は率直で敢えて直言した。長寧侯祚が寵臣趙長らと異姓の兄弟を結び乱を企てるのを見て内心不満に思っていた。重華の晩年、螽斯という虫が安昌門の外に集まり壁を伝って逆行するということがあり、拠はこれを機に祚を退けるよう諫めたが、重華は容れなかった。重華の死後、祚は果たして霊耀を殺し涼州は大乱に陥った。
- 天錫が即位すると拠は征東将軍に遷った。前秦の苻堅が姚萇らに涼を攻めさせると、拠は三万の兵で洪池に布陣、先に姚萇を撃とうとしたが天錫の命を待つことにした。折しも萇は甲士三万を前駆とし拠と洪池で交戦、拠の軍は敗れ馬は乱兵に殺され、部下が馬を差し出そうとすると、拠は「私は寵任極まった身、いまついにここで窮するのも、これが私の死地というものだ、なおも逃れようというのか」と言い、幕舎に入り兜を脱ぎ西に向かって稽首し剣に伏して死んだ。