宋澄の輔政と滅亡
- 宋澄は字を玄安といい、混の弟である。混が死ぬと、澄は代わって領軍將軍となり輔政した。
- 時に旱により雨を祈るため、澄は帶石山に登ろうとした。左右が言った、「世人はこの山に登る者は家が破れ身が滅ぶと言う」と。澄は言った、「そんなことがあろうか」と。馬を策って登ったが、馬が倒れて足を傷めた。御史房の屋柱が自ら燃え焦げて折れた。
- ある者が言った、「柱の字は左が木、右が主である。宋の字は木を含む。木が焦げれば宋は破れ主のみが存する。災いの大なるものである。防ぐべきである」と。
- また乗馬五匹が厩の中で一夜にして鬣と尾がことごとく禿げた。人が言った、「尾の字は上が尸、下が毛である。鬣と尾がことごとく禿げ毛が去り尸のみが存するのは、絶滅の徴である」と。澄は言った、「吉凶は天にあり、知ってどうなるものか」と。
- 澄が後に灯油を燃やすと忽ち血に変わった。二歳の小児が老人のようになり呼んで「宋澄、汝の頭を斫らん」と言った。また城東の水中から火が出た。一年も経たないうちに司馬張邕は澄の専擅を憎み、兵を起こしてこれを殺し、宋氏をことごとく誅した。
- これより先、謡に「宋を滅ぼす者は田土子、邕の一名は野なり」とあったが、ここに至って応験した。