十六国春秋夏錄四 王買德

献策による長安平定

  • 王買徳、当初前秦の姚興に仕え鎮北参軍となった。勃勃が弐城を攻略すると、買徳は兵を率いて帰属した。勃勃は買徳に「朕は大禹の後裔、代々幽朔に住み祖宗は威光を重ね、常に漢魏と対等の国であった、中世には振るわず人に制せられ、朕の代に至り不肖にも先祖の事業を継げず国破れ家滅び流浪の身となったが、いま天運に応じて興り大禹の事業を再興しようと思う、そなたはどう思うか」と尋ねた。買徳は「皇晋が正統を失い神器が南へ移って以来、群雄が並び立ち人々は天下を窺っています、まして陛下は代々徳を重ね朔野に威光を輝かせ、その神武は漢の高祖を超え聖略は魏の太祖を凌ぎます、天が開いたこの機に大業を建てられないことがありましょうか、いま秦の政治は衰えたとはいえ藩国はなお堅固です、しばらく力を蓄え時を待ち、詳しく見極めてから事を挙げられますように」と答えた。勃勃はこれを是とし、軍師中郎将に任じた。
  • 後に勃勃は西秦の乞伏熾磐の喪に乗じ討伐しようとしたが、買徳は「明王の用兵は徳を軌とし暴に依らないもの、しかも熾磐は我が同盟国、新たに大喪に遭ったのに我らが慰めもせず討伐するのは、たとえ衆力を恃み人の喪に乗じるようなことは匹夫でさえ恥とするのに、まして万乗の君においてをや」と諫め、勃勃は「まことにその通りだ、そなたがいなければ朕はこの言葉を聞けなかっただろう」と述べた。
  • その後劉裕が秦の姚泓を滅ぼし長安を占拠、子の義真を残し守らせた。勃勃は買徳に「朕はまさに長安を図ろうと思う、そなた試しにその方略を述べよ」と尋ねた。買徳は「劉裕が秦を滅ぼしたのは、いわゆる乱をもって乱を平らげたにすぎず、徳政で民を救う実がありません、関中は要害の地でありながら弱才の子供に守らせているのは、長期の計とは言えません、あたふたと帰ったのは簒奪の事を急ぎ成そうとしているだけで、中原に意を向ける余裕はないでしょう、これは天が関中を陛下に賜るということ、機を逃してはなりません、陛下が順をもって逆を討つ以上、義は幽顕に貫かれ、百姓は君命によって陛下の義旗の到来を日を年のように待ち望んでいましょう、青泥・上洛は南北の要衝、まず遊兵を配しその往来の道を断ち、その後潼関を塞ぎ崤峡を閉じてその水陸の道を絶ち、徐ろに檄を長安へ伝え恩沢を布告すれば、三輔の父老はこぞって酒食を捧げ王師を迎えるでしょう、義真は空城に独り座し逃げ場もなく、旬日の内に必ず自ら縛につきましょう、これぞ兵を血で汚さず戦わずして平定するというものです」と答えた。勃勃は「よし」と述べ、買徳を撫軍右長史として南から青泥を断たせ、自ら軍を率いて長安を攻め落とした。義真は敗走、買徳はその寧朔将軍傅弘之・輔国将軍蒯恩および司馬毛修之を捕らえた。勃勃はそのまま長安に入り将士を大いに饗応し、杯を挙げて買徳に「そなたの以前の言葉は一年のうちに的中した、まさに算(はかりごと)に誤りなしと言うべきだ、宗廟社稷の霊のおかげとはいえ、そなたの謀と献策の力でもある」と述べ、都官尚書に任じ冠軍将軍を加え河陽侯に封じた。