十六国春秋夏錄四 胡義周

統万城の銘

  • 胡義周、安定臨涇の人。経史に博く通じ特に文章に長けていた。当初前秦の姚泓に仕え黄門侍郎となり文章家として知られた。泓の滅亡後は勃勃に仕え秘書監となった。
  • 勃勃が統万城を築いた際、義周はその功徳を称える銘頌を作った。内容は、禹の子孫である夏后氏の由来から説き起こし、禹が黄河を治め天下の災いを除いた功績と夏王朝が二十世四百年続いたこと、桀の代に殷に取って代わられた(「用」は一に「遂」とも)ことを述べつつ、それでもなお夏の血脈は絶えず勃勃が漠南で龍のごとく興り朔北で鳳のごとく雄飛し、崑崙の外・滄海の彼方にまでその威令が及んだと称える。海岱(岱は一に代とも)の地までも静謐に服し、百万を超える精鋭を擁し秦趙を席巻したこと、涇陽で東周の勢いを挫き平城で漢の高祖の鋭鋒を挫いた故事に比する武功を挙げ、その繁栄ぶりは扶桑に昇る朝日(升は或いは照とも)や夕月が霧の中に澄む(澄は或いは登とも)様子にも例えられるとした。
  • そして勃勃が天命を受け北京(統万)で即位し、朝早くから政務に励み夕方まで食事も忘れて謀を巡らせ、親征すれば戦わずして敵が服し、前秦の姚氏三代の資産をも関隴の地で失わせ、河源の民は旗を望んで帰服し北方の異民族も風化を慕い帰順したこと、徳による柔和と威による征伐を併せ用い(張は一に彰とも)、文武の教えを共に行き渡らせたことを述べる。周の文王の故事に倣い山川の形勝を究めて都城を築き、名山を背に大河に面し、河津を左に要塞を右にして高い城壁と深い堀を巡らせたこと、五郊七廟の制、社稷の礼、明堂・露寝・閶闔・象魏・華林・霊沼・崇台・秘室・複道・馳道・苑園に至るまで壮麗を極め、天下に光を及ぼす様を詳しく描写する。
  • さらに離宮・別殿の建築にも及び、材木は鄧林から、彩石は恒山から集め、九域から金銀を、八方から珍宝を貢がせ、勃勃自ら設計に関わったとし、その壮麗さは如来の須弥山の宝塔や帝釈天の忉利天宮にも比すべきものだと称える。周の宣王の故事や『詩経』の頌に倣い、この都邑の完成を金石に刻んで讃えるべきだとし、銘の本文では、夏の大禹の聖なる功績から説き起こし、代々の帝王が徳を継ぎ、勃勃が天命に応じ神武の姿で龍のごとく興り、名教を広め妖異を払い、四方に威を及ぼし、都城を築いて壮大な宮殿群を建て、その盛大さは霊台・未央宮をも超え、三皇五帝の軌を超えて覇王の法を万代に伝えるであろうと結んでいる。以上はすべて義周の文である。ほかに虵祠碑など多くの文章が世に行われた。その子・方回も勃勃に仕え中書侍郎となった。