十六国春秋後秦錄十 法明(梵言 曇摩耶舎)
各地での修行と後秦での翻訳
- 法明、罽賓の人。若くして学を好み弗若多羅にその才を認められた。成長すると気骨は高く爽やかで見識は明晰、衆に抜きん出ており、経典を博く読み八禅の修行に思いを潜め七覚支に心を遊ばせた。当時の人々は浮頭婆陀に並ぶと評した。単身で山沢を行き虎兕をも恐れなかった。東晋の隆安年間に広州に至り白沙寺に住み、『毘婆沙律』の暗誦に優れ「大毘婆沙」と称された。当時すでに八十五歳、弟子は八十五人に及んだ。東晋の元丹陽尹顔峻の娘・法弘、交州刺史張牧の娘・普明が仏法を学びに訪れ、法明は仏の生涯の縁起を説き、あわせて『差摩経』一巻を訳出した。
- 後秦の弘始年間に長安に至り、興は当時仏法を深く崇めており、法明が至ると格別に礼遇した。折しも天竺の沙門曇摩掘多も関中に入っており、気の合う者同士のように旧知の間柄のごとく親しくなり、共に『舎利弗阿毘曇』を訳出した。弘始九年に梵文の書写を始め、十六年に翻訳を終え、あわせて二十二巻に及んだ。太子泓は自らその内容を管理し味読し、沙門道標が序文を著した。