忠義の勇将
- 餘崇、字は子厚。父の嵩は垂に仕え光禄大夫となったが、平視が魯口で叛いた際、鎮東将軍として討伐に向かい敗れて殺された。崇は宝に仕え建威将軍となった。宝が中山で包囲された際、清河王会は救援に赴くことを願い出て、崇を前鋒として騎兵五百を率いさせ魏軍の強弱を偵察させたところ、魏の千余騎と遭遇し鼓を打ち鳴らして突撃、自ら数十人を討ち取ると魏騎は崩れて退いた。崇も兵を引いたが、その勇猛さは一時評判となり士気は大いに高まった。
- その後会が壮士に高陽王隆を襲わせ殺害し、喪を放り出して龍城へ逃れようとした際、崇は涙ながらに強く諫め、遺骸を軍の後方に載せて運ぶよう聞き入れさせた。宝はその忠義を称え中堅将軍・潁陰公に封じた。蘭汗の乱に際し宝に従い龍城に入った際、崇は密かに宝に「加難の顔色や様子を見るに、禍がすぐそこまで迫っている、ここは留まってよくよく考えるべきです」と進言したが宝は聞き入れず、数里も進まないうちに加難は先に崇を捕らえてしまった。崇は大声で罵り「お前の家は幸いにも王室の血筋に連なり国の寵愛と栄華を受けながら、いま簒逆を謀るとは、天地の許さぬところだ、遠からず一族皆殺しにされるだろう、ただお前たちを自らの手で切り刻めなかったことだけが心残りだ」と言い放ち、加難はこれを殺した。