十六国春秋後燕錄十 屈遵
北魏への帰順を説いた郡守
- 屈遵、字は子度(一に子皮とも)。昌黎徒河の人。博学多才で、慕容永の尚書僕射武垣公となった。永が滅びると垂に仕え博陵令となった。北魏の太祖が南征し軍が魯口に至った際、博陵太守の申永は南へ黄河の外へ逃れ、高陽太守の崔宏は東の海浜(一に渚とも)へ逃走、諸城の長官の多くも逃げ隠れたが、遵だけは吏民に「昨年宝の軍は大敗し、この度も垂の遠征軍は帰らなかった、天が燕を見捨て人々も支えきれずにいる、魏主は神武にして命世の器、寛仁で人の言をよく容れ百万の民を統率してその号令は一つにまとまっている、これはまさに湯武の軍だ、私は帰順するつもりだ、お前たちも励め、この巡り合わせを逃して禍を招くな」と告げ、そのまま北魏に帰順した。魏は遵を中書令とし号令の発布と文書行政をすべて委ね厚く信任した。