慕容垂討伐と苻丕擁立
- 王永、丞相猛の子。清廉で学を好み、堅は扶風太守とした。弟の皮は凶悪で行いが悪く、建元十一年(375年)、散騎侍郎として謀反を企てたが事が発覚し、堅は猛の縁故から皮を赦して殺さず朔方の北へ移し、これを機に永を幽州刺史とした。永は撫恤の才に優れ大いに人心を得た。堅の淮南(淝水)の敗戦後、垂・萇が相次いで叛き乱が四方に起こると、永の意気はますます奮い立ち、平州刺史苻冲と共に二州の衆を率いて慕容垂を討伐した。垂は将の平視に迎撃させ、永は昌黎太守宋敞にこれを范陽で防がせたが敞の兵は敗れ、平視は薊の南に進んだ。永は振威劉庫仁に救援を求め、庫仁は妻の兄公孫希に三千の騎兵を授けて救援させ、平視を薊の南で大破した。永は勝ちに乗じて長駆し唐城に進み慕容麟と対峙した。慕容垂は再び慕容佐を平視と共に薊に攻めさせ、永は力戦したがしばしば敗れ、宋敞に和龍・薊城の宮室を焼かせ、三万の衆を率いて壺関へ逃れた。
- 長楽公丕はこの時鄴城にあり西の長安へ赴こうとしていたが、永は使者を送って招いた。丕は鄴中の男女六万余人を率いて西の潞川へ進み、驃騎張蚝・刺史王騰がこれを迎え晋陽へ入った。永は刺史苻冲に壺関を守らせ自ら一万の衆で丕のもとへ赴いた。丕はここで初めて長安が守れなくなっていたことを知り、堅の凶事を聞くと喪を発し皇帝位に即き、大赦して改元、永を使持節・侍中・都督中外諸軍事・車騎大将軍・尚書令とし清河公に進封、まもなく司徒・録尚書事・左丞相を加えた。永は四方に檄を発し共に姚萇を討伐しようと呼びかけ、天水の姜延・馮翊の宼明・河東の王昭・新平の張晏・京兆の杜敏・扶風の馬郎・建忠の高平牧官都尉王敏らはみな檄を承けて義を起こし、それぞれ数万の衆を集めて使者を送り丕に呼応し、みな将軍・郡守・列侯を拝命した。
- 丕は王騰を晋陽に、楊輔を壺関に留めて守らせ、数万の衆で平陽に進んで拠った。慕容永は道を借りて東へ帰りたいと使者を送ったが丕は許さず、永と苻纂に攻めさせ俱石子を前鋒都督とした。慕容永と襄陵で戦い、石子は大敗し永は戦死した。永の弟皮はこの時略陽太守であったが、郡を挙げて姚萇に降った。