十六国春秋前秦錄十 茍輔

新平城の固守

  • 苟輔、南安の人。堅の新平太守となった。姚萇が兵を率いてこれを攻めると、輔は守り切れないと考え降伏を議したが、郡人の遼西太守馮傑・蓮芍令馮羽・尚書郎高義・汶山太守馮苗が「天下の喪乱にこそ忠臣が現れるものです、昔、田単はわずか一城を守って斉を存続させました、今、秦が保つのはなお連なる州や郡国百城に及びます、なぜたやすく叛臣となってよいでしょうか」と諫めると、輔は喜んで「これぞわが志だ、ただ長く救援がなく郡人が無辜の罪を被ることを恐れるだけだ」と応じ、城に拠って固守した。
  • のちに萇は土山と地道を築いて攻め、輔もまた内側でこれに応じ、地下や山上で戦い、萇の死者は一万余人に達した。輔は偽って降ると見せかけ、萇の将が入城しようとした際に露見して退かせ、輔は馳せ出て追撃し捕斬した数は万を数えた。しかしこの頃には兵糧が尽き矢も尽き外からの救援もなくなり、萇は人を遣わして輔に「私はまさに義をもって天下を取ろうとしている、どうして忠臣を仇とするだろうか、城中の残った衆を率いて長安へ帰るがよい、私はただこの城を得て鎮を置きたいだけだ」と伝えた。輔はこれを信じ男女一万五千人を率いて城を出たが、萇はこれを包囲して生き埋めにし、男女一人も残さなかった。ただ馮傑の子の終だけが脱出でき長安へ逃げた。堅は輔らに官爵を追贈し、いずれも節愍侯と諡した。終を新平太守とした。
  • 当初、石虎の末年、清河の崔悦が新平相となったが郡人に殺された。悦の子掖はのちに堅に仕えて尚書郎となり、父の仇と天を同じくせずと自ら上表して冀州へ帰ることを願い出た。堅はこれを憐れみ新平の人々を禁錮しその城の隅を欠けさせて恥辱を示した。新平の酋望はこれを深く恥じたため、その後こぞって姚萇に抵抗し忠義を立てたのであった。