十六国春秋前秦錄十 桑虞

孝行と乱世での節義

  • 桑虞、字は子深、魏郡の人。仁孝の性を天性より備えていた。十四歳で父を喪い、悲しみのあまり礼に過ぎるほど身をやつし、日に百粒の米を藜藿(あかざとまめの葉)に混ぜて食べるだけであった。姉がこれを諭して「そなたがこれほど身をやつせば必ず命を落とすことになる、命を落とすのは不孝、自ら控えるべきだ」と言うと、虞は「藜藿に米を混ぜれば十分に哀しみに堪えられます」と答えた。兄たちはみな石氏に仕えて顕位に登ったが、虞だけは仲間に加わることを恥じ、密かに海東へ避難しようとしたところ、折しも母の喪に遭いこれを取りやめ、悲しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ細り、墓の側に廬を結んで五年を過ごした。のちに石勒に武城令として召され、虞は黄河に近く海にも遠くないこの地なら以前からの志を伸ばせると考え、喜んで職に就いた。
  • 石虎の時代、太守劉徴はこれを深く重んじ、徴が青州刺史に遷ると虞を長史に召し河北郡を兼ねさせたが、病を得て鄴へ帰り虞に州府の巡行を代行させた。虎が没すると国内は大いに乱れ、朝廷は名臣の子として海岱で功を立てられるはずと考え、密かに東莱の華挺を遣わし虞を寧朔将軍・青州刺史に任じようとしたが、虞は「功名はわが志ではない」と述べ、使者に上申して刺史を辞退し海右に避居し境外とは交わらなかった。偽朝の時代を経ながら乱に加担しなかったため、人々はこれを高く評価した。虞は五代同居し一門は睦まじく治まっていた。堅の青州刺史朗はこれを深く重んじ、かつて虞の家を訪ねて堂に上りその母を拝したことがあり、当時の人々はこれを栄誉とした。