建元初期の武功
- 楊安は名将であり、その功績は鄧羌にほぼ匹敵したが、佐命の列(開国の功臣)には加わらず、建元以前の征討の任にも及ばなかった。匈奴右賢王曹轂の叛乱に際し、堅が自ら中外の精鋭を率いて討伐した際、安を前鋒都督とした(この時すでに前将軍を拝命していた)。轂が弟の活に同川で防がせると、安はこれを大破し活と四千余級を斬り、轂は恐れて降伏を願い出た。翌年、安は輔車王猛と共に二万の衆で荆州を侵し、そのまま南郷を攻めて安陽の民一万余戸を掠めて帰った。
- 建元三年、李儼が張天錫に攻められ枹罕へ退いて救援を求めると、堅は再び安に二万の騎兵で王猛と合流させ救援させ、天錫の将楊遹と枹罕の東で戦い、その軍を破り将を殺した。帰還後、前将軍としてそのまま留任した。この年、晋公栁が蒲坂で叛き魏公庾らも呼応して挙兵すると、堅は諸将に叛乱を分討させ、安と張蚝には陝城から三十里の地点で堅塁を築き動かず、秦雍が平定されてから力を合わせて攻略するよう命じた。まもなく王猛が蒲坂を攻めて苻栁を誅すると、鄧羌を安に助けさせて陝城を攻め陥落させ、庾を捕らえて長安へ送った。鎮南将軍に遷った。
燕討伐から益州平定まで
- 建元六年、堅は安ら十将に歩騎六万を授け燕を討伐させ、いずれも王猛の節度を受けた。安は晋陽を攻めたが晋陽は兵も糧も豊富で久しく落とせなかった。王猛が援護し地下道を掘って入城すると、その刺史慕容荘を捕らえた。凱旋後、鄴を破った功を論じ博平郡侯の爵を賜り吏部尚書に進んだ。建元七年、再び安を使持節・都督益梁州諸軍事・梁州刺史とし、まもなく都督南秦州諸軍事を加え仇池に鎮めさせた。建元九年、晋の梁州刺史楊亮が子の広に仇池を襲わせると、安はこれを撃破し勝ちに乗じて追撃、諸城は逃げ散った。そのまま漢川を攻略し梓潼を攻めるとその太守周虓が降った。別将は梁益二州を取り、卬・莋・夜郎がみな帰順した。堅は安を右大将軍・益州牧として成都に鎮めさせた。
- 建元十年、蜀の張育らが挙兵し自ら蜀王を称し、巴の獠族の酋帥張重らと合わせ五万余人で成都を包囲した。まもなく育と重が権力を争って互いに挙兵すると、堅は鄧羌に安を助けさせ育を撃破、安はさらに張重を成都の南で破り重を斬り、羌が育を撃ち斬って益州は平定された。まもなく安は荆州刺史とされ樊鄧に移り鎮した。建元十四年、長楽公丕が襄陽を攻めた際、安に樊鄧の衆を前鋒とさせたが、丕はのちに襄陽を陥落させた。堅は中塁将軍梁成を南中郎将・都督荆揚州諸軍事・荆州刺史として安に代えて樊鄧に鎮めさせた。