生涯
- 崔宏、字は玄伯、清河東武城の人、魏の司空崔林の六世孫。祖父の悦は石虎に仕え司徒右長史・関内侯に至り、父の清は慕容暐に仕えて黄門侍郎となり、いずれも才学で知られた。宏は若くして俊才があり「冀州の神童」と称された。陽平公融が冀州牧となると心から敬礼し、陽平国侍郎・領冀州従事管征東記室に任じ、外に出れば庶事を総攬し内に入れば賓友として扱われ、諸務の処理に滞りがなかった。堅はこれを聞いて非凡さを認め太子舎人に召そうとしたが、母の病を理由に応じず、著作郎に左遷された。のちに長楽公丕が冀州牧となると征東功曹に召し、太原の郝軒はこれを評して宏に王佐の才があると称え、近代未曾有の逸材だとした。堅の敗北後、乱を避けて斉魯の間を彷徨い、丁零の翟釗や晋の叛将張願に抑留された。郝軒は「これほどの人物がこの時世に遭いながら、扶揺(大鵬の巻き上げる旋風)の勢いに乗じることができず燕雀と共に浮沈するとは、なんと惜しいことか」と嘆いた。
- 慕容垂は宏を吏部尚書・左丞・高陽内史とし、歴任した先々で治績を称えられ、身を処すこと雅正で世俗に流されず、兵乱の中にあっても志操を励まし学問に篤く倦むことなく、資産を意に介さず妻子は飢寒を免れなかった。魏の太祖が慕容宝を征し軍が中山に至った際、宏は郡を棄てて東へ海浜へ逃れたが追手に捕らえられ軍門へ送られ、そのまま魏に仕えることになった。本来の志を遂げられなかったため詩を作って自らを傷んだが、これを世に広めなかったのは罪を恐れたためであろう。のちに太宗(魏の明元帝)に仕え爵位は上公にまで至った(詳細は『魏書』本伝に見える)。