十六国春秋前秦錄九 苻暉

生涯

  • 苻暉、堅の第二子。堅の即位後、平原公に封ぜられた。建元十六年(380年)、堅は氐族の種類が繁殖したことから十五万戸を分けて宗親にそれぞれ統べさせ要地に分散配置した際、暉を都督豫洛荆南兖東豫揚六州諸軍事・鎮東大将軍・豫州牧として洛陽に鎮めさせ氐戸三千二百を配した。合肥(淝水)の敗戦後、丁零の翟斌が挙兵し秦に叛いて暉を洛陽に攻めると、堅は駅馬の書で慕容垂に討伐させた。暉は垂に進軍を促す使者を送ったが、垂は南で丁零と結び苻飛龍を殺しその衆をことごとく生き埋めにした。暉はさらに驍将毛当に翟斌を撃たせたが斌に敗れ当は戦死した。暉は洛陽・陝城の衆を率いて長安へ帰ったが、折しも慕容冲が軍を率いて長安から二百余里まで迫り城内は戒厳態勢にあった。堅は暉を使持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隷校尉・録尚書とし兵五万を配し冲を防がせ、河間公琳を中軍大将軍として後継とした。冲は婦人に牛に乗らせ竿を掲げて旗とし塵を挙げて衆を励まし早朝に暉の陣営を攻めた。暉は出て応戦したが、冲が砂塵を巻き上げ鼓を鳴らして紛れさせると暉の軍は大敗、冲はこれで阿房に拠った。冲はしばしば暉の軍を破り、堅は暉を「そなたはわが才ある子であるのに、大軍を擁しながらしばしば白い虜の小僧に打ち破られている、なぜ生きているのか」と咎め、暉は憤懣のあまり自殺した。