十六国春秋前秦錄九 苻宏

太子としての輔佐

  • 苻宏、堅の長子。堅が大秦天王を自称すると宏を皇太子に立てた。建元元年(365年)、匈奴曹轂・劉衛辰らが挙兵して叛くと、堅は自ら討伐に赴き衛大将軍李威・左僕射王猛に太子宏を輔けさせ長安を留守させた。堅は朔方を平定し諸夷を巡撫して帰った。建元六年(370年)、堅は再び丞相王猛に諸将を督させ歩騎六万で鄴へ向かわせ、李威に太子宏を輔けさせ長安を守らせ、自ら精鋭十万でその後継とし、七日で安陽に至った。猛は密かに堅を迎え「監国はまだ幼く、鑾駕が遠く出向いて万一のことがあれば悔いても及びません」と告げたが、堅は軍を合わせて鄴を攻めこれを陥落させ燕冀を平定した。

晋討伐への諫言と長安脱出

  • のちに堅が晋への大挙討伐を議した際、群臣の意見が分かれ廷議は長く決しなかった。太子宏は「呉(晋)は今、歳運に恵まれており討つべきではありません、しかも晋主に罪はなく、謝安・桓沖兄弟はいずれも一方の俊才、君臣が力を合わせ長江の険に拠っている今は図るべきではありません、兵を鍛え糧を蓄えて暴君が現れるのを待ち一挙に滅ぼすべきです、今もし動いて功がなければ威名を外に損ない財力を内に使い果たします」と進言したが、堅は「昔、燕を滅ぼした時も歳運を犯しながら勝った、天道は幽遠でそなたの知るところではない」と応じた。沙門道安も「太子の言葉は正しい」と述べたが堅は従わず、ついに淮南(淝水)の敗北を招いた。
  • 慕容冲が偽尚書令高蓋に渭北の諸塁を攻めさせると、太子宏はこれと成貳壁で戦い二万を斬った。堅はしばしば慕容冲に敗れ長安を固守したが、城中に予言の書が現れ、堅はこれを信じて太子宏に長安を守らせ後事を託し、自ら中山公詵・張夫人と共に騎兵数百で五将山へ赴き、州郡に触れを出し冬に長安を救援すると期した。宏はまもなく母・妻・宗室の男女数千騎を率いて逃げ、百官は逃げ散った。この年は晋の太元十年(385年)であった。宏が逃れる際、まず下辯の南秦州刺史楊璧を頼ったが璧は拒んだため、武都へ逃げ氐豪強熙を頼り道を借りて晋へ帰した。朝廷は宏を江州に置き輔国将軍を歴任させたが、桓玄が帝位を簒奪すると宏は涼州刺史とされ、玄が滅びると義熙初年(405年頃)に謀反を企て湘中を侵し誅殺された。