風流と青州刺史としての治績
- 苻朗、字は元達、堅の従兄の子。度量が広く神気は爽やかで、幼くして遠大な志を抱き時の栄華に頓着しなかった。堅はかつてこれを評して「わが家の千里の駒だ」と語った。使持節・都督青徐兖三州諸軍事・鎮東将軍・青州刺史を拝命し楽安男に封ぜられたが、朗は固く辞退したものの許されずやむなく赴任した。方伯(州の長官)となってもなお在野の士のように経籍を愛好し手から書を離さず、玄談に興じては日が暮れるのも忘れ、山水を渉猟しては老いの近づくのも忘れるほどであった。任地では治績が高く評価された。
晋への帰順と気風
- のちに晋が淮南太守高素に青州を伐たせると、朗は使者を謝玄のもとへ送り彭城で降伏を願い出、玄はこれを上表して許し、員外散騎侍郎を加えられた。揚州に至ると、その風流は当代随一で超然自得しており、多くの人を見下し、共に語り合う相手は一人二人に過ぎなかった。驃騎長史王忱は江東の俊秀と評判で朗を訪ねたが、朗は病と称して会わなかった。沙門の竺法汰が「王吏部(王国宝)兄弟に会ったか」と問うと、朗は「人面にして狗心、狗面にして人心の兄弟のことか」と答えた。王忱は容貌が醜いが才は聡明、国宝は容貌が美しいが才は弟に劣っていたため、朗はこう評したのである。汰は当惑して恥じ入ったといい、朗が人を侮り物事に逆らう気風はこの類であった。
- 謝安がかつて宴を設けて朗を招いた際、朝士が座を埋め尽くしたが、朗はことあるごとにこれを誇示しようとし、唾を吐く際には小僧に跪かせ口を開けさせて唾を吐かせては口に含んで出すことを繰り返させた。座の者はとても及ばないと感じたという。特に味覚に優れ、塩味や酸味、肉の種類をすべて言い当てた。会稽王司馬道子が朗のために盛大な饗宴を設け江左随一の精美な料理を尽くした際、食べ終えて感想を問うと「みな結構だが塩味だけがやや生煮えだ」と答え、料理人に確かめるとその通りであった。あるいは鶏を殺して食させると、その鶏の生前の癖を言い当て、鵞鳥の肉を食べても黒白どちらの部分か言い当て、人がこれを信じずに試したが寸分違わなかった。当時の人々はこれを味覚の達人と称えたという。
最期
- 数年後、王国宝に讒言されて殺された。王忱は荆州刺史となるにあたり、朗を殺してから赴任しようとしたのであった。刑に臨んでも朗の態度は泰然自若で、詩を作り、生死は天命に任せ達観する心境を詠んだという。『苻子』数十篇を著し世に行われた。これもまた老荘の流れを汲むものであった。