才学と裁断の妙
- 苻融、字は博休、堅の末弟。若くして非凡で早熟、堂々とした姿と度量を持っていた。健は融を安楽王に封じようとしたが融は固く辞退し、健はこれを深く評価して「わが子に許由の節操を成さしめよう」としてこれを許した。生は融の器量と容貌を愛し常に側近くに侍らせ、二十歳前にすでに宰輔の器と評判が高く、成長するとその令誉はますます高まり朝野の期待を集めた。堅の即位後、陽平公に改封され侍中・中書監・左僕射を拝命、まもなく中軍将軍に転じた。聡明で弁が立ち、筆を執れば即座に文章を成し、玄理を論じては道安でさえこれに及ばないほどであった。耳にすれば暗誦し、目にしたことは忘れなかった。当時の人々はこれを王粲になぞらえた。かつて『浮屠賦』を著し、その壮麗清雅な文は世に珍重された。高きに登れば必ず賦を作り、喪に臨めば必ず誄を作ったという。朱肜・趙整らはその文才の巧妙さと速さを称えた。膂力も雄々しく勇敢で騎射・撃刺は百人に匹敵する腕前であった。
- 内外の刑政を総攬し秩序を整え、埋もれた人材を登用する手腕は王景略(猛)に比肩するとされ、特に獄事の裁断に優れ奸悪の付け入る隙がなかったため、堅の深い信任を得た。のちに司隷校尉となった際、京兆の董豊という者が三年の遊学から帰った夜、妻の実家に宿泊するとその夜妻が賊に殺され、妻の兄が豊を疑って有司に送ったところ、豊は拷問に耐えかね妻殺しを誣告された通り自白してしまった。融はこれを調べ怪しんで往路の異変や占いの結果を尋ね、易の卦を分析して真犯人を推測、これを追及すると果たして馮昌という者が自白した。
- 融が冀州にあった頃、ある老婆が路上で強盗に遭い、賊は逆に老婆を強盗と誣告する事件があった。日も暮れかかり真偽が分からなかったため、融は二人を共に走らせ「先に鳳陽門を出た方が盗賊ではない」と告げ、実際に出走の様子から真犯人を見抜いたという。このように奸悪を見破ることに優れ、任地では盗賊が跡を絶ち道に落ちた物を拾う者もいなくなった。堅や朝臣はみなその手腕に感嘆し、州郡の疑獄はことごとく融が裁いたという。融は関東を鎮めていても朝廷の大事には必ず駅馬で参議した。至孝な性格で、冀州に赴任中も母の様子を頻繁に人を送って尋ねさせたため、堅はこれを煩わしく思い月に一度の使者に制限したほどであった。のちに上疏して母への孝養のため帰還を願い出たが堅は慰留して許さず、久しくして召還し侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隷校尉・太子太傅・領宗正・録尚書事とし、まもなく司徒に転じたが固く辞退して受けなかった。
晋討伐への諫言と最期
- 融は将として謀略に優れ施しを好み士を愛し、専ら征伐に当たれば必ず殊功を立てた。堅が荆揚への遠征を志し慕容垂・姚萇らが平呉・封禅の事を説いてこれを後押しした際、堅は江東平定を執心し夜も眠れぬほどであったが、融はそのたびに「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うくならない、古来窮兵極武にして滅びなかった者はない、しかも国家は本来戎族の出、正朔は本来我らに帰していない、今、江東は絶えそうで絶えない糸のようだが、天が助ける以上、決して滅ぼせない」と諫めたが、堅は「帝王の暦数に常があろうか、ただ徳のある者に授けられるだけだ、そなたがわしに及ばないのは、まさにこの通変の理を理解していないところにある、劉禅は漢の遺祚を継ぐ者ではなかったが、結局中国に併呑された、わしはそなたに天下の事を任せようとしているのに、なぜ事あるごとにわしの計画を挫くのか」と応じた。
- 堅が晋討伐に執心すると、融はさらに切に諫め「陛下は鮮卑・羌の虜の諂いの言葉を信じ、良家の少年たちの口先だけの説を採用しておられます、垂・萇はいずれも我らの仇讐、風塵の変(内乱)を待ち望み、それに乗じて凶徳を逞しくしようとしています」と述べたが、堅はこれも聞き入れず、融を征南大将軍として騎兵を率い樊鄧を侵させた。淮水の戦いで敗れ、融は騎馬で陣を巡ろうとしたところ馬が倒れて殺され、軍はついに大敗した。堅は淮南から逃げ帰り長安東の行宮に至ると、融のために哭してから太廟に罪を告げ、融には大司馬を追贈し諡を哀公とした。垂・萇の叛乱を聞くにつれ、堅の悼み恨みはいっそう深まったという。