十六国春秋前秦錄九 苻法

苻生打倒と最期

  • 苻法、字は永則、小字は阿法、雄の庶長子。生の後将軍として仕え清河王に封ぜられた。生の残虐がますます甚だしくなり宗室勲旧をほぼ殺し尽くした頃、生はある夜、侍女に「阿法兄弟も信用ならぬ、明日除いてしまおう」と語った。その夜、法は神が「明朝、そなたの一門に禍が及ぶ、先んじて気づいた者だけが免れられる」と告げる夢を見て目覚め心が動揺していたところ、折しも侍女が来てこれを告げたため、法は特進梁平老・強汪らと壮士数百人を率いて密かに雲龍門に入った。堅も呂婆楼と麾下数百人を率いて鼓を鳴らして続き、生を捕らえて別室に移し斬った。
  • 法は堅に位を譲ろうとしたが堅は皇帝の号を去り大秦天王を称して太極殿で即位、法を使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・東海公とした。堅の母は法が年長で賢く人望も厚いため、終には変事の因となることを恐れ、宣明台に出遊した際に法の邸宅を見ると門前に車馬が輻輳しているのを見て、いよいよ不利になると恐れ、衛軍李威と謀って法に死を賜った。堅は仁孝な性格で法に対しては特に友愛が深く、東堂での今生の別れに慟哭し血を吐くほどであったといい、諡を献哀公とした。
  • その子の陽を東海公、敷を清河公に封じたが、陽はのちに謀反を企てて事が露見した。堅がその理由を問うと、陽は「礼に『父母の仇とは天を同じくせず』とあります、私の父哀公が罪なく死んだのは、斉の襄公が九世の仇を復讐した故事に例えられます、私も父の仇を討とうとしただけです」と答えた。堅は涙して「哀公(法)が薨じたのは朕のせいではない、そなたも分かっているはずだ」と述べ、赦して殺さず、陽を高昌へ移した。陽は勇力人並み外れており、まもなく再び鄯善へ移されたが、のちに鄯善の相を脅かして東へ帰ろうとしたため、鄯善王に殺された。