十六国春秋前秦錄九 苻黄眉

生涯

  • 苻黄眉、健の兄の子。神器秀抜で雄勇奇略に富んだ。当初、健の輔車将軍として洛陽に鎮めさせられた。皇始三年(353年)、張遇の乱に際し黄眉は洛陽から健のもとへ帰順し、衛大将軍とされた。淮南王生(のちの苻生)はもとより黄眉と親しく、生の即位後は広平王に封じられた。当時、生は法の運用が厳酷で、生の舅強平が直諫して意に逆らったため、生は怒って殺した。黄眉は苻飛・鄧羌と共に太后の縁で必死に諫めたが生は聞き入れず、黄眉を左馮翊として出した。
  • 姚襄が関中を略した際、生は黄眉と建節将軍鄧羌に歩騎一万五千で防がせたが、襄は塹壕を深く塁を高くして戦わなかった。羌は黄眉に「傷ついた鳥は弦の音だけで落ちるものだ、襄はしばしば桓温・張平に敗れ鋭気は尽きている、今固く守っているのは窮鼠に過ぎない、しかし彼は頑固で刺激されやすい、鼓を打ち旗を掲げて塁門に迫れば必ず怒って出撃してくる、そこを一戦で捕らえられる」と説き、黄眉はこれに従った。羌がまず騎兵三千で塁門に迫り挑発すると、襄は怒り精鋭を出撃させ、羌は偽って敗走し襄を平原まで誘い込むと、羌は騎を返して迎え撃ち黄眉の大軍が続いて到着すると大戦、襄を斬りその衆をことごとく捕虜とした。黄眉らは凱旋したが、生はこれを賞さず衆の前でしばしば辱めたため、黄眉は怒って生を殺し自立しようと謀ったが事が発覚し誅殺され、王公親戚にも連座して死んだ者が多かった。