十六国春秋前燕錄十 悅綰

凡城の防衛

  • 悅綰、榼盧城の大人。当初皝に仕えて司馬となった。石虎の侵攻に際し征北張挙が凡城を襲うと、皝は綰を禦難将軍に任じ兵千を授けて守らせた。趙軍が至ると将吏は皆恐れて城を捨てて逃げようとしたが、綰は「命を受けて敵を防ぐ以上、生死を共にする、城の堅固さを頼めば一人で百人に当たれる、みだりに言って衆を惑わす者は斬る」と述べ、衆はようやく落ち着いた。綰は自ら士卒の先頭に立ち矢石を冒して戦い、張挙らは十日余り攻めても落とせず退いた。

陰戸廃止の建策

  • 石虎が鄴で没し混乱が起こり、冉閔が石氏を滅ぼすと、石祗が救援を求めてきたため、儁は綰に三万の兵を授けて赴かせ、鄴の平定後に引き上げた。前将軍に遷り呂護を魯口で追撃して功を立て、尚書右僕射に進んだ。まもなく安西将軍・領護匈奴中郎将・并州刺史として并州を守った。暐の即位後は尚書左僕射に転じた。
  • 綰は王公貴戚の多くが陰戸(隠れた私有民)を蓄えているのを見て暐に「今、三方が鼎立し互いに併呑を狙っているのに、太傅(評)の政治は寛容に過ぎ、百姓の多くが権門に隠れ付いている、今、諸軍営戸は三分され風教も乱れ威令も立たず、民戸が尽き租税も入らず、役人の俸給も戦士の食糧も途絶え、官が穀物や布を貸して自ら賄う有様だ、これでは隣国に聞こえても恥ずかしく、統治のあり方としても良くない、すべての陰戸を廃止して郡県に戻し、法紀を明らかにして天下を清めるべきだ」と進言、暐はこれを容れ綰に専任させた。綰は不正を摘発して隠匿を許さず、二十万戸余りを摘発したため朝野に怨嗟の声が起こり、太傅評も大いに不満を持った。綰はもともと病があったが自ら努めて戸籍の整理にあたり、病はいっそう重くなって没した。のちに苻堅が燕を滅ぼした際、綰の忠を聞いて会えなかったことを悔やみ、その子を郎中に任じたという。