段氏への出仕
- 陽裕、字は士倫、右北平無終の人。幼くして父を失い兄弟も早世し孤独の身であったが、宗族の誰も彼を評価しない中、叔父の躭だけがその非凡さを見抜き「この子はわが一門の秀でた者というだけでなく、時世を輔ける良器となろう」と評した。刺史和演に主簿として召され、王浚のもとで治中従事に転じたが忌まれて重用されなかった。石勒が薊城を落とした際、棗嵩に幽州で最も優れた人物を問うと「燕国の劉翰は徳望のある長者、北平の陽裕は実務の才がある」と答えたが、勒が「王浚はなぜそのような人物を用いなかったのか」と問うと嵩は「王公が用いなかったからこそ明公に捕らえられたのです」と答えた。勒が裕を登用しようとすると、裕は密かに変装して令支へ逃れた。
- 当時、鮮卑単于段疾陸眷は晋の驃騎大将軍・遼西公として人材を好み、裕を虚心に招いた。裕は友人の成泮に「孔子でさえ佛肸の招きを喜んだ、伊尹も『誰に仕えても君主、誰を使っても民』と述べた、聖賢でさえそうなのだから私のような者はなおさらだ」と語ると、泮は「今、中華は分裂し九州は裂かれている、隠棲して世が清まるのを待つのは黄河の澄むのを待つようなものだ、人生は短い、そなたが招きに応じるのも幾(機微)を知る神業であろう」と応じ、裕は招きに応じて郎中令・中軍将軍・上卿の位に就いた。段氏五代の主に仕え深く親任された。
石虎への降伏と皝への出仕
- のちに段遼が皝と抗争した際、裕は「隣国と親しむのが国の宝、慕容氏とは代々婚姻の間柄であり、皝もまた令徳の主である、兵を交え怨みを結んで百姓を疲弊させるべきでない、両者とも過ちを改めて和好を通じ、国家を泰山のごとく安んじ民を安息させるべきだ」と諫めたが遼は従わず、裕は燕郡太守・北平相として出された。石虎が遼を攻めて薊まで長駆した際、裕は数千家の民を率いて燕山に籠って自衛しようとした。諸将はこれを後患と見て急いで攻めようとしたが、虎は「裕は儒生で名節を重んじ降伏を恥じているだけで何もできまい」としてこれを見過ごし、令支を落とすと裕は自ら軍門に降った。
- 虎は「そなたは昔は奴隷のように逃げ回り今は士人として来たが、天命を知って逃げ場がなくなっただけではないのか」と咎めたが、裕は「私はかつて王公(王浚)に仕えながらこれを救えず、段氏に逃れてもまたこれを全うできませんでした、今、陛下の威は天下を覆い幽薊の豪傑もみな靡き従っています、生死は陛下のお定めのままに」と答え、虎はこの言葉を喜び北平太守に任じ、尚書左丞に召した。
- 段遼が趙への降伏の仲介を求めた際、裕は左丞として征東将軍麻秋の司馬となったが、秋が敗れると裕は皝の軍に捕えられ皝のもとへ送られた。皝はかねて裕の名声を聞いており、その捕虜の身を解いて郎中令に任じ、大将軍左司馬に転じさせた。東の高句麗を破り北の宇文を滅ぼした戦いはいずれも裕の策謀にかかるもので、皝は深くこれを重んじた。龍城(一作和龍)への遷都に際しても、裕は巧みな工夫を凝らし城池・宮閣の規模はすべて裕の設計によるものであった。
人柄と最期
- 裕は皝に仕えて以来、日を追って寵遇が篤くなり旧臣たちの上位に置かれたが、謙虚清廉で剛直かつ情に厚く、朝廷の要職にありながら布衣の士のような態度を崩さず、流亡し身寄りのない者があれば必ず手厚く葬り遺族を助け、賢愚を問わず身を尽くして遇したため、至る所で推し尊ばれた。かつて范陽の盧諶は「私は晋の清平の世から今日まで多くの朝士を見てきたが、忠清簡毅・篤信義烈の点で陽士倫ほどの人物はまずいまい」と称えたという。裕が没すると皝は深く悼み葬儀に三度も自ら臨んだ。享年六十一。