十六国春秋後趙錄十二 韋謏

学識と歴任

  • 韋謏、字は憲道、京兆の人。儒学を好み著述に優れ、群書の要諦を博覧した。当初劉曜に仕えて黄門郎となり、のちに石虎に仕えて散騎常侍となり七郡の太守を歴任してみな清廉な治政で知られた。廷尉に召された際、識者はこれを漢の名判官・張釈之になぞらえた。前後して九卿に四度、尚書に六度、侍中に三度、太子太傅に二度就き、京兆公に封ぜられた。軍国の宜しきを陳ずることを好み多くが採用され、虎がかつて微行した際には直言して激しく諫め『伏林』三千余言を著し、これを敷衍して『典林』二十三篇とした。著述・記録は数十万言に及び該博で見識に富んでいたが、性格は謹厳とは言えず自らの功を誇る面があり、識者はこれを軽んじた。

子との応酬

  • かつて子の伯陽に「我が高祖・曽祖以来累代栄光を重ね、我が父も私も立派であった、そなたはこの私に対してまさに悪しき応対をしている」と語ると、伯陽は「私の不肖はまさに仰る通りですが、あなたもまた先祖に対して軟弱な応対をしているだけです」と切り返し、謏は返す言葉もなく恥じ入り、人々はこれを語り継いで笑い話とした。

冉閔への諫言と最期

  • 冉閔の代に光禄大夫に進んだ。閔が子の𦙍を大単于に任じ降胡千人をその麾下に配した際、謏は「胡・羯はみな我らの仇敵であり、今帰順しているのはただ生命を保つために過ぎない、万一変事があれば後悔しても遅い、降胡を誅して屏し単于の号を除いて禍を未然に防ぐべきだ」と諫めたが、諸胡の懐柔を図っていた閔は激怒し謏を捕えて誅殺し、子の伯陽も殺された。まもなく羌胡が反乱し道は混乱に陥り、閔は謏の言葉を思い出して大司徒を追贈したという。