流離の半生
- 盧諶、字は子諒、范陽涿の人。祖珽は晋の衛尉卿、父志は魏郡太守を経て永嘉初めに尚書となった。諶は聡明で文を能くし荘老を好んだ。洛陽陥落後、父に従って并州刺史劉琨に身を寄せたが劉粲に捕らえられ晋陽に留められ参軍となった。劉琨が粲を攻め敗れさせると諶は琨のもとへ帰れたが、平陽にいた父母兄弟は劉聡に皆殺された。
- 建興末、琨に従って段匹磾のもとに投じ別駕となったが、匹磾が琨を殺害するとまもなく自身も敗れた。江南への道が絶たれていた諶は遼西の段末波のもとに身を寄せ、流離すること二十余年に及んだ。石虎が遼西を破ると諶は再び捕えられ、中書侍郎・国子祭酒・侍中・中書監を歴任した。冉閔が石氏を誅した際、諶は閔の軍に従って襄国にいたが軍士に殺され、時に六十七歳であった。
人物と著作
- 諶は名家の子として早くから名声があり、才行高潔で一時に重んじられた。常に子らに「私が死んだ後は、ただ『晋の司空従事中郎』とだけ称せよ」と語っていたという。『祭法注』『荘子注』および文集を著し世に伝わる。中原の喪乱で公卿・人士のほとんどが殺される中、諶と河東の裴憲、渤海の石樸、滎陽の鄭系、頴川の荀綽、清河の崔悦、北地の傅暢、中山の劉群だけは各地に流落しながらも生き延びたが、いずれも高官に至ったことをむしろ恥辱と考えていたという。