十六国春秋後趙錄十一 麻襦

出自と奇行

  • 麻襦は出自も氏族姓名も知られない人物で、石虎の時代に魏県の市中で物乞いをしており、麻の襦と布の裳だけを身につけていたことから麻襦と呼ばれた。言動は常軌を逸し狂人のようで、施された米穀を食べず路上にまき散らして「天馬に飼う」と称していた。趙興太守がこれを捕らえて虎のもとへ送った。

石虎との謎めいた問答

  • これより先、仏図澄は虎に「国の東二百里より、いついつに常ならぬ人物が送られてくる、殺してはならない」と告げており、果たしてその通りになった。虎が語らっても麻襦は変わったことを言わず、ただ「陛下は一柱殿下で終わるであろう」とだけ告げた。虎はその意味を解せず、澄のもとへ送った。

佛図澄との論説

  • 麻襦は澄に対し、乱世の到来と西戎(石氏を指すとみられる)の天命が尽きる時期についての謎めいた言葉を残した。澄もまた「天運は極まり否運に転じ、時運を支えることは術をもってしてもかなわない、たとえ玄哲な者であろうと世に基盤を残すことはできず、いずれ頽れる、この世は憂患に満ちている」という趣旨で応じた。二人は終日論じ合ったが、盗み聞いた者にもわずかな言葉しか理解できず、推し量るに数百年先の事を語っていたようだという。

予言「一柱殿下」の的中

  • 虎は駅馬で麻襦を元の県へ送り返させようとしたが、麻襦は徒歩で行けると辞し、「合口橋で待っていてほしい」と告げて先に出発、使者が急いでも麻襦はすでに橋の上に先着しており、その歩みは飛ぶがごとくであったという。
  • のちに慕容儁が石虎の屍を漳水に投げ入れた際、屍は橋の柱に引っかかって流れなかった。当時の人々はこれを麻襦の「一柱殿下」という予言の的中と見なし、また晋の元帝が江左で即位したことも、麻襦の言う「天馬」の応験と結び付けて語られたという。