出自と苦行
- 単道開、姓は孟、燉煌の人。若くして隠遁を志し、粗末な褐衣を常に着け、絹の衣を贈られても着なかった。寒暑を意に介さず冬も肌を露わにし夏も温かい服のまま過ごし、昼夜横にならず、穀物を絶って柏の実を食べ、それが得難くなると松脂を服し、のちには細石を数枚ずつ数日おきに服し、時には薑や胡椒を多少口にする生活を七年続けたという。
- 阜陵太守が馬を遣わして開を迎えようとしたが、開は徒歩で三百里を一日のうちに行けると辞退した。山中に暮らすことを好み、山の神々が異形となって試そうとしても恐れる様子がなかった。
石虎への招請と鄴での処遇
- 建武十二年(346年)、西平から日に七百里を行く速さで南安に至り、十四歳の童子を沙弥として得度させ、その修行も開に及ぶほどであったという。
- 時に太史が「仙人星が現れており高士が入境するはずだ」と虎に奏上していたため、秦州刺史が開を鄴へ送った。虎は仏図澄と語らせたが、開を屈服させることはできなかった。当初は鄴西の寺に、のちに臨漳の昭徳寺に移り、房内に高さ八九丈の重閣を築いてその上に禅室を設けさせ、常にそこに座した。虎の手厚い供給はすべて人に施したという。
- 人々が教えを乞うても開は多くを語らず、偈を作って「一切の苦を憐れみ出家して世を利するには、まず明を学び悪を断つべきだ。山は遠く糧は得難いゆえ断食を行うのであり、仙術を求めてのことではない、みだりに言い広めるな」という趣旨を示した。
医術と南方への遍歴
- 開は日々桐の実ほどの丸薬を数粒服し、薬には松・蜜・薑・桂・茯苓などが用いられ、茶蘇を一二升飲むのみであった。眼病を治せると称し、石韜(石虎の子)が治療を受けて効果を得たと伝わる。仏図澄は「この道士は国の興亡を見て取っており、去れば大災が起こるだろう」と評した。
- 太寧元年(349年)、開は弟子と共に南の許昌へ渡り、まもなく虎の子弟が互いに殺し合い鄴で大飢饉が起こった。晋の升平の初め(357年頃)に建業へ赴き、のちに南海に至り羅浮山に入って独居し、俗世を離れて百余歳で山中で没した。遺骸は勅により石穴に置かれ、弟子らが石室に移したという。
死後の顕彰
- かつて開の弟子から仙人のごとき所業を伝え聞いて敬慕していた康泓は、南海への赴任の機会に自ら開に面会し、深く教えを受けて伝賛を作り「飄然として俗塵の外に立ち、小乗を軌とし内に法身を暢べる、玄象は輝き高歩は世に遵うべし」と称えた。
- 晋の興寧元年(363年)、南海太守となった陳郡の袁宏が弟の頴叔・沙門支法防と共に羅浮山に登り石室で開の遺骸を見ると、生けるがごとく香火や瓦器もそのままであった。袁宏は「法師の業行は群を抜き、まさに蟬の脱皮のようなものだ」と述べ、賛を作って「遺された履物が林に残り、千載に一度の高士である」と称えた。