十六国春秋後趙錄十一 佛圖澄

出自と神異な能力

  • 佛図澄は天竺の人、本姓は帛氏。若くして出家し、清廉な学僧として経典数百万言を誦し、玄妙な術に通じ、学生たちとの論議でも誰も彼を屈服させられなかった。晋の永嘉四年(310年)に洛陽に来た当時、自ら四百余歳と称した。常に気を服して自らを養い、長期間食を断つことができ、神呪をよくし鬼神を使役したと伝わる。掌に麻油と菌芝を塗ると千里先の出来事が映って見え、潔斎した者にも同様に見せることができたという。腹の脇に孔があり、夜に絮を抜くとその光で室内を照らして読書し、斎の日には孔から腸胃を引き出して洗い、また体内に納めたとも伝わる。鈴の音を聞いて吉凶を占い、外れることがなかった。

石勒への接近と信任獲得

  • 澄は洛陽に寺を建てようとしたが劉曜の侵攻で洛陽が乱れたため、しばらく草野に潜んで時変を窺った。石勒は葛陂に屯し残虐で沙門を多く殺していたため、澄はこれを憐れみ、勒の大将で仏法に帰依していた郭黒略のもとへ赴いて五戒を受け弟子の礼をとり、その道術によって勒に取り立てられた。勒が試すとことごとく的中し、以後厚く重んじられ、中原の胡・晋人がこぞって澄に帰依した。難病を治療するなど、その隠れた恩恵は数えきれないという。
  • 勒が澄を試そうと夜に甲冑を着けて立ち、使者に「大将軍の所在が分からない」とだけ告げさせたところ、澄は使者が言い終わる前に「平時に敵もないのになぜ夜警か」と逆に問い返し、勒はますます澄を敬った。
  • のちに勒が怒りにまかせて道士たちを害し澄をも苦しめようとした際、澄は郭黒略の家に身を隠し弟子に「将軍の使者が来て私の居所を問われたら知らないと答えよ」と言い含めた。使者は澄を見つけられず、勒は驚いて「悪意を抱いたばかりに去られてしまった」と一晩中眠れず澄を思った。澄は勒の悔悟を察して翌朝訪ねると、勒が「昨夜どこにいたか」と問うので、澄は「あなたに怒りの心があったので一時避けたが、今は改心されたので参った」と答え、勒は大笑いして「道士どのの思い過ごしだ」と応じた。

水源復活と薛合の変

  • 襄国の城の堀の水源が突然涸れた際、勒が理由を問うと澄は「龍に命じましょう」と答えた。勒の字は世龍であったため自分への嘲りかと問い返す勒に、澄は「本物の龍が水を出さぬから申し上げたまで」と真意を説明した。弟子らと水源へ赴き、香を焚いて数百言の呪願を三日続けると、涸れた水源から小龍を伴って水が湧き出し、堀は満水になった。
  • 澄は「三日後にここで小さな騒動が起こる」と予言した。果たして襄国の薛合の二子が鮮卑の奴を軽んじて弄んだため、奴が弟を刺殺し兄を人質に立て籠もる事件が起きた。勒自ら赴き薛合に穏便な対処を諭したが、奴を捕えようとしたところ奴は兄を殺して自らも死んだ。

予知の的中と鄴遷都後の厚遇

  • 劉聡の死後、劉曜が偽位を継ぎ弟の中山王岳に石勒を攻めさせたが、石虎が迎え撃って洛西で大勝し、岳は石梁塢に退いて虎に包囲された。このとき襄国にいた澄は寺に入るや「劉岳が気の毒だ」と嘆き、弟子の法祚が理由を問うと「昨日亥の刻に岳は捕えられた」と告げ、果たしてその通りであった。
  • 勒が劉曜を平定し趙天王を称した頃、澄は「今年の葱には虫がいるので食べれば人を害する、民に食べさせぬように」と諫め、勒が布告すると間もなく石葱(人名)が反乱を起こして敗走した。以後勒は事あるごとに澄に諮問し「大和尚」と号した。子らを寺で養わせ、四月八日には自ら灌仏の儀に赴いて息子たちのために発願したという。
  • 勒の死後、石虎は𢎞を廃して自立し鄴へ遷都したが、澄への帰依はさらに篤く、綾錦を着せ雕輦に乗せ、朝会では常侍・御史に輿を助けさせ太子や諸公に前後を支えさせるなど、破格の礼遇を与えた。司空李農に日々の起居を伺わせ、太子・諸公には五日に一度朝見させて敬意を表させた。これを聞いた京師の支道林は「澄公は季龍(石虎)を海鴎鳥のように手なずけたものだ」と評したという。

弟子たちとの逸話

  • 澄は鄴城内の寺にとどまり、弟子は諸国に広がっていた。ある時弟子の法佐が同輩の法常と夜通し語り合った翌朝、澄に会うと澄は先回りして「昨夜そなたたちは私の噂をしていたであろう、独り慎むことの大切さを知らぬのか」と笑って告げ、法佐は驚き恥じ入った。以来国人は「悪心を起こせば和尚に知られる」と噂し、澄のいる方角に唾を吐く者さえいなくなったという。
  • 郭黒略が長安攻めの途中、北山で羌族の伏兵に陥った際、澄は突然顔色を変えて「郭公が危難にある」と告げ、僧たちに呪願させた。自らも呪願を重ね「東南に出れば助かる」と告げると、間もなく「脱した」と言った。果たして黒略は東南へ逃れる途中、部下が自分の馬を差し出してくれたおかげで窮地を脱したという。

晋軍侵攻と石虎への諫言

  • 晋軍が淮西・隴北に進出し各地の城が脅かされると、石虎は「仏に仕え僧を供養してきたのに外寇を招くとは、仏に霊験などない」と怒った。澄は「陛下は前世、大商人として罽賓の寺の大法会に居合わせた六十羅漢の一人であった。その果報が尽きて鶏の身を受け晋の地の王となるはずが、今は天子となっている。国境の侵犯は国家の常であり、三宝を怨み謗るべきではない」と諭し、虎は悔いて謝したという。

予言と加護の逸話

  • 澄が弟子を西域へ香を買いに遣わした際、掌の中にその弟子が賊に襲われ死にかけている様を見て取り、香を焚いて遠くから救護の呪願をした。弟子はのちに、まさにその日その場所で賊に殺されかけたとき香気を嗅いだ賊が「救援が来た」と怯えて逃げ去ったと語った。
  • 虎が「仏法は不殺というが、天下を治めるには刑殺なしにはいかない、戒を破ることになるが仕方ない」と問うと、澄は「帝王が仏に仕えるとは恭倹慈仁を旨とすることであり、無実の者を殺さないことだ。凶悪で改まらぬ者を罰するのはやむを得ないが、殺戮を濫用せず刑を慎むべきだ。暴虐に走れば財を投じて仏に仕えても禍は免れない」と答え、虎は完全には従わなかったものの益するところは少なくなかった。
  • 尚書の張良・張離らが富に飽かせて大塔を建てたとき、澄は「仏に仕えるとは清浄無欲・慈しみの心であり、寺塔を飾りながら貪欲を改めず狩猟や蓄財に耽るなら現世の罪を受けるだけで福報など望めない」と戒めたが、離らはのちに誅殺された。
  • 黄河には元来黿(大すっぽん)がいなかったが、ある時それが獲れて献上された。澄はこれを見て「桓温が黄河に入るのも遠くあるまい」と嘆いたが、字を元子という桓温は果たしてのちに黄河へ進出した。
  • 澄が虎と共に殿堂に上った際、「幽州に大火がある」と告げて酒を含んで吹きかけ、しばらくして「もう救えた」と笑った。虎が確かめさせると、まさにその日幽州で四方から火が起こったが、西南から黒雲が来て驟雨がこれを消し、その雨には酒の匂いがしたという。

入滅前の予言と最期

  • 建武十四年(348年)冬十一月、澄は寺で仏像を見て「荘厳を尽くせなかったのが心残りだ」と独りごち、「あと三年生きられるか」と自問して「否」、「二年、一年、百日、一月ならば」と重ねて問うても「否」と答え、そのまま黙り込んだ。房に戻ると弟子の法祚に「戊申の年に禍乱の兆しが萌し、己酉の年に石氏は滅びる。乱の起こる前に自分は去ろう」と告げ、虎に使者を送って「万物は必ず移ろい、我が身も長くはない、化する時期が来た、これまでの厚恩に報いるため先んじてお伝えする」と辞去を告げた。虎は驚き悲しみ、自ら宮を出て寺へ赴き慰めた。
  • 澄は虎に「生死は道の常であり、寿命の長短は定まっていて増減できない。ただ徳行を全うすることが尊いのであり、徳に欠けがなければ死もまた生に等しい。国家が仏理を尊んで寺を建て僧を得度させれば福を蒙るはずだが、政治が苛烈で刑罰が濫りに過ぎては聖典に背き、自ら改めねば福祐は得られない。もし心を改めて民に恵みを施せば国運は長く続き、道俗ともに慶びを得られよう」と最後の諫言を残した。
  • これに先立つ建武十一年(345年)、虎は漳水に紫陌浮橋を架けた際、澄のために紫陌に生前墓を造らせていた。虎は澄の死を悲しみ嗚咽し、自ら墓穴を掘らせた。十二月八日戊子(348年)、澄は鄴の宮寺で没し、百官がこぞって弔い、生前用いた錫杖・銀鉢を棺に納めて石棺に葬り、祠を立てた。

死後の異変

  • のちに大旱の際、虎が澄の祠に詣でて額づき祈ると二頭の白龍が祠の下に降り、千里に雨が降ったという。また雍州から来た沙門が関に入る澄の姿を見たと語り、門番も澄が履物を片方携えて去るのを見たと報告した。虎が墓を掘らせると、履物一つと石一つがあるだけで遺骸はなかった。虎は不吉に思い「石とは朕のことだ、私を葬って去ったのでは、私の命も長くあるまい」と嘆いたが、果たしてその後病を得て、翌年(349年)に世を去り、石氏は大いに乱れた。