十六国春秋後趙錄十 石生
関中での挙兵と敗死
- 石生は勒の養子である。衛将軍・司州刺史を務め、雍州刺史に転じて兵三千を率い洛陽の金墉城を鎮めた。太和三年、河東王に封じられた。
- 勒の死後、虎が朝政を専断し生殺与奪をすべて自らの手に握ったため、生は関中で挙兵し虎討伐を名目に自ら秦州刺史を称した。虎は前鋒大都督石挺を遣わしてこれを撃たせ、生は将軍郭機に鮮卑の部衆二万を率いさせて前鋒とし、自らは大軍を率いて後詰とし蒲阪に進んだ。機と挺は潼関で戦い、挺は敗死したが、虎は澠池に退いて屯した。鮮卑(郭機の軍)はひそかに虎と通じ、これに乗じて生を攻撃した。
- 生は当時蒲阪に拠っていたが石挺の死を知らず、恐れて単騎で長安へ奔った。虎は軍を進めて関中に入り長安を包囲攻撃し、生は長安を守りきれず立ち去って隴上へ向かおうとしたが士卒はことごとく散り、ついに雞頭山(鄠県の東にある)に入り部下に殺された。