十六国春秋前趙錄八 劉𦙍

出自と幼少期の評判

  • 劉𦙍、字は義孫。劉曜の世子で、前の妃卜氏の子。光禄大夫卜泰の甥にあたる。容姿優れ機知に富み、十歳で身長七尺五寸、眉目秀麗であった。劉聰はこれを見て非凡さを認め、曜の別の子である儉(字は義真)よりも優れると評し、周の文王が長子伯邑考を退けて武王を立てた故事を引いて曜に後継を考え直すよう促した。曜は「一藩国の跡継ぎとして祭祀さえ守れれば十分であり、長幼の順を乱すべきではない」と固辞したが、聰の強い勧めもあり、結局曜の子儉は臨海王に封じられ、𦙍が世子に立てられた。

靳準の乱での離散と帰還

  • 靳準の乱の際、𦙍は行方知れずとなり黒匿郁鞠部に身を寄せていたが、曜の光初七年、自ら郁鞠に素性を明かした。郁鞠は驚いて衣服・馬を与え、自分の子を付き添わせて送り返させた。曜は𦙍との再会に涙して喜んだ。困難の中にあっても𦙍は風格・才気に優れ、身長八尺三寸、髪は身の丈ほど長く、力強く騎射に巧みであったため、曜も群臣もこれを重んじた。

皇太子交代をめぐる論争

  • 曜は、既に立てていた太子熙(羊皇后の子)が幼く柔弱で今の多難な世に堪えないとして、経験豊かで器量に優れた𦙍に代えようと図り、周の文王・光武帝の故事を引いて群臣に諮った。太傅呼延晏らは賛成したが、左光禄大夫卜泰・太子太傅韓広らは「既に立てた太子を廃するのは前例に反し、熙にも十分な徳がある」と強く反対した。
  • 𦙍自身も涙ながらに「父が子を慈しむ道に照らせば、熙を廃して自分が代わることなど到底できない。もし自分を有能とお思いなら、熙を補佐すればよいだけのこと」と固辞し、死を賭してでも受けぬ意志を示した。これに心動かされ、また熙の生母羊皇后への情も断ち難かった曜は、ついに交代を取りやめた。
  • 曜は𦙍の亡母卜氏を元悼皇后と追諡し、その伯父卜泰を厚遇する一方、𦙍自身は永安王に封じられ、のちに大司馬・南陽王・大単于にまで進んだ。曜の末年、関中が混乱する中で石虎に殺害された。