十国春秋卷一百七 北漢四 列傳 郝貴超

郝貴超(附 郝惟慶)

  • 郝貴超はその家世を失伝している。世祖・睿宗に事えて大将となり、しばしば戦功を立てた。天会四年八月、宋の晋州鈐轄荆罕儒が汾州に来侵し、貴超はちょうど汾の地を鎮していたので、ひそかに軍を出してその陣営を襲い、罕儒はついに戦死した。罕儒は宋にとって驍将であったので、宋の太祖はこれを痛惜し、命令に従わなかった部将二十余人を斬った。貴超はその後、楽平を救い遼州を援けたが、皆功はなかった。しばらくして死んだ。
  • 同時代にまた禁帥の郝惟慶という者がいた。貴超の宗人(同族の者)かと思われる。人となりは椎(無骨)で無文(教養がなく)、物情に通じなかった。当時、諸方の物産がまだ通じていなかったころ、賈客(商人)が閩・粤より来て橄欖子(オリーブの実)を世祖に献じた。翌朝、大僚に分け頒けられると、惟慶は「この果実は我が郷里の竹青棗に似ている、久しく食べてようやくその味を知る程度のもので、官家(宮中)がどうして賜わる必要があろうか。私が喜ぶのは金稜の略綽盤(宴席の盛り皿)くらいのものだ」と言った。聞く者は大いに噴き出して笑った。