十国春秋卷一百六 北漢三 列傳 湘隂公贇

要約

湘陰公贇は世祖の子で、高祖劉知遠に愛されて養子となり、乾祐年間に武寧軍節度使・同平章事に任じられていた。隠帝が弑逆され郭威が京師に入ると、宰相馮道らに推戴の意欲がないと見た郭威は、王峻とともに太后に働きかけて贇を漢の後継に推挙させ、馮道に迎えに行かせた。しかし郭威はすでに澶州で兵に擁立されて自立しており、王峻の命を受けた侍衛馬軍指揮使郭崇威が護衛と称して贇を宋州で足止めし、判官董裔の急襲の献策も贇は猶予して用いず、崇威はひそかに贇配下の護聖指揮使張令超を誘って兵をことごとく奪った。太后は贇を湘陰公に降封する詔を下し、崇威は賈貞・董裔ら側近を殺し、贇はまもなく殺された。

かつて贇に従い徐州を守っていた右都押牙鞏廷美・元従教練使楊温は、贇が立てられなかったと知ると贇の妃董氏を奉じて城を閉じ周に抗い、王彦超に攻められて乾祐四年三月ついに滅ぼされた。史論はこの二人を、周・漢革命の中で孤城を堅守し死をもって終えた死節の士として評価している。

また世祖の他の子である鎬・錡・錫・鍇・銑のうち賢明であった鎬・錡・錫は英武帝が群小の讒言を用いて別室に幽閉し、一年も経たぬうちに瘐死させ、鍇・銑も続いて殺されたが銑だけは愚を装って免れた。世祖の嫡孫で気局のあった継文、大内都検点を務めた継欽も、英武帝に才を疎まれて代州刺史に出されたり、病と称して辞職を請うても人を遣わして殺されるなど排斥・殺害され、史論はこれらの一族粛清が北漢滅亡の遠因になったと結んでいる。

現代語訳全文

湘隂公贇(附 鞏廷美・楊温)

  • 湘陰公贇は世祖の子である。高祖はこれを愛して自らの子とした。乾祐元年、武寧軍節度使を拝し、二年に同平章事を加えられた。
  • 郭威がすでに慕容彦超を北郊で破ったのち、隠帝が弑逆されると、威は京師に入り、諸大臣に密かに推戴を望んだが、宰相馮道らに会うと、道はまったくその意がなかった。威はやむを得ず道に会って拝礼したが、道はなお平時のようにその拝を受け、徐(おもむろ)にこれをねぎらって「公の道行きはまことに苦労であった」と言った。威の意と顔色はみな沮(くじ)け、大臣たちがいまだ自分を推戴する意がなく、自立するのも難しいと考えた。そこで王峻とともに太后に上奏し、漢の後継を推し選ぶことを願った。群臣はそこでともに「武寧節度使の贇は、高祖が愛して子とした者である。立てて後継とするべきだ」と奏し、太師馮道に百官を率いて迎えに行かせた。道は威の意が贇にないことを推し量り、(贇に)直ちに進み出て「公のこの挙は本心からのものですか」と問うと、威は天を指して誓った。道はすでに出発すると左右に「私は平生偽りの言葉を発したことがないが、いま偽りを言ってしまった」と語った。
  • 道は贇に会い、太后の意を伝えて召した。贇が出発して宋州に至ると、威はすでに澶州より兵士に擁立され京師に還っていた。王峻は贇の左右に変事が生じることを慮り、侍衛馬軍指揮使の郭崇威に兵七百騎をもって贇を衛らせた。崇威が宋州に至ると、贇は楼に登って崇威に来た理由を問うた。崇威は「澶州の軍変があり、まだ実情が明らかでないことを懼れ、崇威を遣わして護衛させたのです。悪意ではありません」と言った。贇が崇威を召したが、崇威はあえて進まなかった。馮道が出て崇威と語り、崇威はそこで楼に登って贇に会った。
  • このとき護聖指揮使の張令超は歩兵を率いて贇の宿衛をしていた。判官の董裔は贇に説いて「崇威の視線と挙動を観るに、必ず異謀があります。道路ではみな郭威がすでに天子となったと言っておりますのに、陛下はなお深入りして止まりません。禍がまさに至るでしょう。急ぎ令超を召し禍福を諭し、夜に兵をもって崇威の配下の士卒を襲わせ、明日には雎陽の金帛を掠め士卒を募って北の太原に走らせるのが、これが上策です」と言った。贇は猶予して決しなかった。この夕、崇威はひそかに令超を誘って郭氏に帰し、贇の部下の兵をことごとく奪った。
  • 郭威は書をもって道を先に帰らせ、その副の趙上交・王度を留めて贇を奉じ太后に入朝させた。道はそこで贇に辞して先に還った。贇は道に「寡人がここに来たのは、公が三十年来の旧相であることを恃みとしていたからで、それゆえ疑わなかったのだ」と言ったが、道は黙然としていた。贇の客将賈貞らはしばしば道に目配せしてこれを図ろうとしたが、贇は「軽々しく事をなすでない。(禍が)どうして公から出ようか」と言った。道はすでに去った。
  • 崇威はそこで贇を外館に幽閉し、賈貞・董裔および牙内都虞候劉福、孔目官夏昭度らを殺した。郭威はすでに監国となっており、太后はそこで誥(詔)を下して、「近ごろ枢密使の威は宗社を安んじようと志し、長君を立てることを議し、徐州節度使贇を高祖の近親として立て漢の嗣とすることとし、藩鎮より京師に召し赴かせた。しかし誥命はすでに発せられたが、軍情はこれに附かず、天道は北にあり人心は東に靡かない。まさに改めて卜すべき初めに当たり、分土の命に応じさせるべきである。贇は開府儀同三司・検校太師・上柱国を降授され、湘陰公に封じるべし」と言った。贇はついに殺されて死んだ。
  • はじめ贇が徐州から入朝した際、右都押牙の鞏廷美、元従教練使の楊温に命じて徐州を守らせていた。廷美・温は贇が立てられなかったことを聞き、そこで贇の妃董氏を奉じて城を閉じ命に抗した。周の太祖は王彦超を権武寧節度使に拝し、詔を下して廷美・温を諭し、刺史の位を許すとし、また湘陰公(の名を騙った)書を送って「思うにこの人(廷美ら)は主に尽くす心があり、その忠義を賞するに足る。何をもって悔尤(過失)を責める理由があろうか。公はこの意を伝え、さらに事情を委曲に示すがよい」と言った。廷美・温はこれに従わなかった。乾祐四年三月、彦超は徐州を克(陥落させ)、廷美・温は皆殺された。

史論

論曰:欧陽公(欧陽脩)は、かつて周が廷美らを招く詔書四通を見たが、いずれも廷美らはすでに周に款(誠意)を送っていたが、後に罪を懼れて再び叛いたと言っている。しかし廷美らの款状(帰順の証)はついに見つからないので、周の詔もまた拠るに足らないのである。周・漢の革命の時に当たり、中原はすでに劉氏の有ではなくなっていたのに、廷美・温は独り区々たる孤城をもって贇のために堅守し死をもって終えた。その始終を跡づければ、これもまた死節の士に恥じないのではなかろうか。朱子は『通鑑綱目』を作るにあたり「湘陰公の故将鞏廷美らが徐州で兵を挙げた」と書いた。それは実に春秋の旨(大義名分の趣旨)を深く得たものである。

世祖諸子――鎬・錡・錫・鍇・銑

  • 世祖の子十人のうち、史籍に見えるものは、湘陰公・孝和帝のほかに、鎬・錡・錫・鍇・銑という。英武帝にとっては皆諸父(おじ)にあたる。鎬と錡・錫は諸兄弟の中で最も賢行があったが、英武帝は群小(つまらぬ者ども)の讒言を用いて別室に幽閉し、一年も経たぬうちに皆瘐死(獄中で衰弱死)した。鍇・銑もまた続いて殺されたが、銑だけは愚を装って(殺害を)免れた。錡はあるいは鐃に作るとし、一説には錡と鐃は二人であるという。

世祖孫――彭城郡王繼文

  • 継文は世祖の嫡孫である。人となりは魁梧(たくましい)で気局(度量)があり、沈毅寡言(落ち着いて口数少ない)であった。歴官は侍衛親軍使。天会の時、契丹が罪を問うてくるたびに使者数人を拘留した。睿宗はそこで継文を遣わして賀させようとしたが、(継文は)命を請うたにもかかわらずやはり留められて発することができなかった。ほどなく遼主は怒りを解き、使者十六人をことごとく帰し厚礼をもって遣わしたが、継文もその中にあった。時に英武帝が嗣位して三年目であった。遼主はなお書を移して継文を同平章事とするよう命じた。継文は帰って国政を秉(と)ったが、左右の者はその寵を害しようとしてしばしば讒毀(讒言中傷)した。まもなく出されて代州刺史となった。国が亡ぶと再び契丹に奔り、彭城郡王に封じられ、その国で生涯を終えた。

世祖孫――繼欽

  • 継欽は世祖の諸孫である。累官して大内都検点となった。はじめ睿宗は英武帝の兄弟が幼弱であったので、継欽に禁衛の事を掌らせ副とした。英武帝が立つと、親旧の多くが誅殺・放逐された。継欽は病と称して辞職を請うたが、英武帝は「継欽はただ先帝に仕えていただけだ。どうして私のために力を尽くそうとするだろうか」と言い、退けて交城に居らせ、まもなく人を遣わしてこれを殺させた。

史論

論曰:鎬・錡・錫・銑は賢明で宗家を亢(ささ)えるに足り、継文・継欽は才があって外侮を禦ぐに堪えたのに、孝和(睿宗)は自らの昆従(一族の若い兄弟)を捨てて群英を差し置き、異姓(血のつながらない養子継恩)を立てて後継とした。ついに本支(本家の血統)がすでに撥(うしな)われる結果となり、邦国は淪亡(滅亡)した。莒人が鄫を滅ぼした故事のごとく、実に自ら招いたものであろう。