十国春秋卷一百二 荆南三 列傳 保寅

保寅

  • 保寅は字を斉巽といい、文献王の第□(欠)子である。晋の天福七年、蔭によって太子舎人を授けられ緋を賜り、たびたび加えられて検校司空に至った。貞懿王の時、節院使を奏授された。宋が興ると保朂はそのまま荆南の節鎮を襲ぎ、保寅に汴京に入覲するよう命じた。太祖は便殿で召見し、慰藉すること甚だ至れり尽くせりで、掌書記を授けて還らせた。保寅は保朂に「真主は世に出た、天はまさに区宇を混一しようとしている。兄は真っ先に諸国を率いて土を奉じて朝に帰すべきです、他人に富貴を取られることのないようにしなさい」と語ったが、保朂は聴かなかった。
  • 宋の将慕容延釗らが武陵を征するに及び、道は荆口に出た。保寅は牛酒をもって軍を犒った。太祖はその功を嘉し、駅召して闕に赴かせ将作監に除し内作坊使に充て、第一区を賜った。まもなく宿州を知り、乾徳四年、母の喪に丁って起復し、少府監に遷った。開宝五年、懐州を知った。歴任して司農・衛尉の二卿となった。この州はもと河陽に隷していたが、時に趙普が帥となっており保寅と素より隙があった。事は多く抑制されたので、保寅は心中平らかならず、手ずから疏を上って支郡の制を罷めることを請うた。宋の太宗はこれに従い、頗るその言を韙(よし)とした。また西川諸州都巡検使となり、光禄卿に改められた。歴任して同州・汝州を知り、光化軍に改められて卒した。享年六十八。訃報が聞こえると朝廷は銭十万を賻し、朝を廃すること一日であった。
  • 初め、保寅が懐州にいたとき、蘇易簡・王欽若はともに童年で学に趨きはじめたばかりで、同州にあっては銭若水が従事となっており、光化軍にあっては張士遜がその邑人であった。保寅はいずれもこれを奨め抜擢し、遠大の器をもって許した。世は多くその人を知る能力を称えた。子の輔政・輔之・輔堯・輔国はいずれも進士に及第した。