十国春秋卷九十八 閩九 列傳 朱文進
要約
朱文進は永泰の人、連重遇は光山の人で、ともに恵宗が太祖以来の元従で編成した拱宸・控鶴の二都の将であった。康宗が別に宸衛都を新設して市井の者を厚遇し二都を冷遇したため両都は不満を募らせ、北宮の火事をめぐる嫌疑とその処理を疑われた重遇の恐れから、二人は兵を挙げて南宮を焼き、康宗を城外へ脱出させて景宗を擁立した。
しかし景宗にもしだいに疑われるようになり、寵を争う李后と尚賢妃の陰謀にも利用されて重遇らをそそのかす形で景宗の弑逆に至った。重遇は百官を朝堂に召し集め、王氏がその統緒を荒れ果てさせたとして朱文進を助け起こして帝位に即かせ、王氏一族延喜以下五十余人を尽く誅殺した。文進はみずから閩主と称して永隆の政策を全て反転させ善政を装ったが、唐には使者を囚われ、晋にはかろうじて藩と称して威武軍節度使・閩国王に封じられた。
まもなく南廊承旨林仁翰が重遇をその邸で刺殺してその首を晒すと、福州の国人もまた文進を殺し、二つの首は函に入れて建州の富沙王のもとへ送られた。福州は一旦平定されたが、数か月後には再び李仁達の乱が起こることとなる。
現代語訳全文
閩主僭称と滅亡
- 朱文進は永泰の人、連重遇は光山の人である。
- はじめ恵宗は太祖の元従(古参の従者)を拱宸・控鶴の二都に編成し、文進を拱宸都将、重遇を控鶴都将に任じ、親兵と号した。
- 康宗が立つと、さらに勇士を募って宸衛都とし、みずからの護衛とした。その賜与は二都に対しては独り厚く見なされたので、文進と重遇はこれによってその軍を怒らせることとなった。
- ある時、北宮で火事があり、賊を捜索したが捕らえられなかった。康宗は重遇に内外の営兵を率いて残り火を掃除させ、日々一万人を使役したので、士卒の多くはこれを苦しんだ。
- また、重遇の軍士が放火したのではと疑い、そのことをそれとなく内学士の陳郯に語った。まもなくこの話が漏れ、重遇はこれを恐れ、二都の兵を率いて放火し南宮を焼いた。
- 康宗は愛姫や子弟、宦官・衛士を連れて門を破って脱出し、野で宿営した。重遇は景宗を迎えて君主とし、康宗はついに難を免れなかった。
- 重遇はすでに罪を負い、日夜、国人に討たれることを恐れていたので、ますます文進と親密になり、婚姻を結んだ。
- ほどなく景宗はかなり内心疑いを持つようになり、しばしば重遇らを言葉で咎めた。重遇らは涙を流して自ら弁明した。
- ちょうど李后と尚賢妃が寵を争い、景宗を図って(廃して)その子の陽を立てようとし、人を使わして重遇らをそそのかしたので、景宗はついに弑された。この事は本紀に詳しい。
- 重遇はそこで百官を朝堂に召し集め、告げて言った、「太祖昭武皇帝はみずから矢石を冒して閩国を光啓(切り開き)された。今、子孫は淫虐にして、その統緒を荒れ果てさせ、堕落させた。天は王氏を厭い、有徳の者を求めてこの地を安んじようとしておられる」と。衆はあえて何も言わなかった。
- 重遇はそこで文進を助け起こして殿に上らせ、袞冕(天子の礼服)を被せ、群臣を率いて北面し再拝して臣と称した。
- 文進はみずから閩主と称し、王氏の宗族の延喜以下五十余人を悉く誅した。重遇を六軍を総べる者とし、礼部尚書・判三司とした。
- 令を下して宮人を解放し、営造(工事)を罷め、永隆の政をことごとく反転させた。鮑思潤を同平章事とし、黄紹頗に泉州を守らせ、程文緯に漳州を守らせ、許文稹に汀州を守らせた。
- まもなく文進は使者を唐に遣わしたが、唐はその使者を囚え、討伐しようとした。文進は再びみずから威武留後と称し、晋に藩と称した。晋は文進を威武軍節度使とし、閩国の事を知らせた。まもなく同平章事を加え、閩国王に封じた。時に晋の開運元年であった。
- ちょうど林仁翰が重遇を殺し、その首を掲げて衆に示した。衆はまた文進を殺し、二つの首を建州に送った。福州はほぼ平定されたが、数か月を経て、また李仁達の乱が起こった。