恵宗弑逆から皇城衛士に殺さるまで
- 李倣がどのような人物であったかは分からない。官を積んで皇城使となった。
- 永和の頃、宮中の職にあった李可殷が宮中の女官と私通しており、国人は皆これを憎んでいたが、可殷はしばしば倣を恵宗に讒言していた。倣は内心これを怨みに思ったが口には出さなかった。
- また恵宗の次子の継韜は、この頃、康宗と折り合いが悪く、互いに図り合っていた。
- 冬十月、恵宗が軍を饗して殿上で大いに酒宴を開いた時、坐中で恵宗が朦朧として「延稟が来るのが見える」と口にした。倣はこれを(恵宗の)病がすでに重いためと考え、壮士に先に可殷をその家で殺させた。
- 翌日の早朝、恵宗はことのほか無事であり、倣に「可殷を殺したのは何の罪によるのか」と問うた。倣は恐れて退出し、康宗とともに皇城の衛士を率いて入り、ついに恵宗を弑し、あわせて継韜および陳后を殺した。
- 通文の初め、倣は大軍諸衛の事を判した。倣はすでに康宗を擁立していたが、内心では常に自ら疑いを抱き、死士を多く養って備えとした。康宗はこれを患い、大宴を催して兵を伏せ、倣を捕らえて殺し、その首を市に梟した。
- 倣の部曲千人が叛いて啓理門を焼き、倣の首を奪って銭塘へ奔った。