十国春秋卷九十四 閩五 列傳 延武

延武

  • 延武は永和元年、泉州刺史に任じ、能名があり、まもなく太傅を加えられ開国伯に進んだ。通文元年、建州刺史に改められた。

繼崇

  • 繼崇は延彬の子である。長興元年、恵宗の墨勅により泉州事を権判した。三年、検校司空を加えられた。龍啓元年、検校太保を加えられ瑯琊開国男に封じられた。

繼勲

  • 繼勲は延美の次子である。留従効が泉州を回復すると州の印を持ってその邸に赴き、軍府の事を主らせることを請うた。時に天徳帝はすでに殷国を称しており、すぐに繼勲を侍中兼泉州刺史とした。翌年、繼勲は唐に款を納めた。李弘義が唐の威武節度使となるに及んで、繼勲は書を送って修好を求めたが、弘義は泉州がもと威武軍に隷していたことを理由に、その対等の礼に怒り、弟の弘通を遣わして兵を治め相攻めさせた(『通鑑』にいう、開運三年四月、李弘義は弟の弘通を遣わし兵一万を率いて繼勲を伐たせた、と)。
  • この時、従効は都指揮使として異心を抱いており、表向きは言葉で繼勲を脅して「弘通の兵勢は甚だ盛んで、士卒は使君の賞罰が正しくないことを理由に力戦しようとしません。使君は位を避けて自らを省みるのがよろしいでしょう」と言った。そこで繼勲を廃して私邸に帰らせ、代わってその事を領し、そのまま兵を率いて弘通を撃ちこれを破り、唐に上聞した。唐は繼勲を召して金陵に帰らせた。

彦復

  • 彦復は太祖の従弟である。景福の初め、彦復は都統として太祖とともに范暉を福州に攻め、自ら矢石を冒して方略を指授し、ついに福州城を陥落させ、暉は逃げて死んだ。しばらくして泉州刺史を官とし、その職のまま没した。

  • 想もまた太祖の従弟である。太祖に従って閩に入り、銀青光禄大夫上柱国として福州長楽県令を摂り、頗る幹才を持ち、県の事は治まった。

延喜

  • 延喜は太祖の庶子である。永隆中に汀州刺史を官としたが、景宗は延喜が富沙王と通謀しているのではと疑い、将の許仁欽を遣わしてこれを捕らえて連れ帰らせた。後に朱文進に殺された。

延武(太祖の子)

  • 延武は太祖の子であり、恵宗にとっては諸弟の一人である。通文の時、建州刺史を官とした。折しも巫者の林興が延武と折り合わず、鬼神の言葉に託して「延武と延望とが変を起こそうとしている」と言ったため、殺され、その子も及んだ。